陰謀論と生成AIの時代──情報の真正性を見極める方法を美術史家の視点から考察
社会を蝕む疑心暗鬼を和らげる解決策はあるか?
この問題を解決するため、美術史にできることがあるとすれば何だろう? 目を皿のようにして不審点を見つけることは根本的な解決にならない。どのみち、いたちごっこでしかないからだ。これは画像の文化的価値の問題だ。であるとすれば、美術史はそれを検証する作業を助け、もしかすると解決策すら提示できるかもしれない。30年以上前、美術史家のジョナサン・クレーリーは、その著書『観察者の系譜:視覚空間の変容とモダニティ』の冒頭で、次のように書いている。 「この10年あまりの間に、膨大な種類のコンピューター・グラフィックス技術が急速に発展した。これを含む大きな変化によって、観察する主体とさまざまな表現形式との関係性が一挙に再構成された」 このままでは、この「再構成」の結果として社会に深い不信感が広まり、私たちをニヒリズムと麻痺状態に陥れるだろう。フェイク画像そのものより、これこそが本当の危機だと言える。そして、市民生活の基礎を支えている公共組織やジャーナリズムの力を揺るがそうとする者たちの最終目的は、そうした状況を作ることなのだ。 フォトショップで加工された画像やAIによる生成画像を見分けるため、上に挙げたリストが役に立つのであれば、ネット上のあらゆる画像にこれを適用してほしい。だが、画像の細部に目をこらすよりも前に、その出所を確認するほうがより良い解決策だと私は思う。目利きであることよりも来歴を知ることを重視すべきだ。 美術史家は画像を注意深く観察し、矛盾する点がないかを探す。しかし、絵画の真贋を判断したり、作者を特定したりする際には、筆跡や顔料を見るだけでは十分ではない。その絵がどのような人の手を経てきたか、どのような歴史をたどってきたかを示すさまざまな情報も考慮する。 今の社会では、デジタル画像に関する同様のプロセスが必要とされている。これを「デジタル・フォレンジック(Digital Forensic)」(*1)と呼ぶが、この役割を担うべきは一般の人々ではない。個々の人間が完璧に中立であることは不可能で、あらゆる分野について専門知識を持っているわけでもないからだ。たとえば私は、車で橋の上を通る前に橋の安全性を証明することはできないし、レタスに大腸菌がついているかどうかを判断することもできない。だから、それを判断できる専門家や組織の評価を信じる。情報に関しても同様だ。ニュース画像に対し、ジャーナリストは上で説明したようなチェックを行う責任がある。そして、私たちはそれを信じるしかない。 社会を蝕む疑心暗鬼を和らげるための一つの方法は、世に出回る画像の真正性を見極められる専門家を抱えている報道機関や画像アーカイブを支持することだろう。前述したように、AP通信はこれが可能であることを証明した。 それは現実的でないと思うだろうか? では聞きたい。ジャーナリズムへの信頼を強化することと、ニュースを見る全ての人がデジタル・フォレンジックの専門家になることと、どちらが現実的だろうか。