「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫③ 山里の家で薫が心惹かれた、琵琶の音と2人の姫君
輝く皇子は、数多くの恋と波瀾に満ちた運命に動かされてゆく。 NHK大河ドラマ「光る君へ」の主人公・紫式部。彼女によって書かれた54帖から成る世界最古の長篇小説『源氏物語』は、光源氏が女たちとさまざまな恋愛を繰り広げる物語であると同時に、生と死、無常観など、人生や社会の深淵を描いている。 この日本文学最大の傑作が、恋愛小説の名手・角田光代氏の完全新訳で蘇った。河出文庫『源氏物語 6 』から第45帖「橋姫(はしひめ)」を全7回でお送りする。 【図解】複雑に入り組む「橋姫」の人物系図
光源氏の死後を描いた、源氏物語の最終パート「宇治十帖」の冒頭である「橋姫」。自身の出生に疑問を抱く薫(かおる)は、宇治の人々と交流する中でその秘密に迫っていき……。 「橋姫」を最初から読む:妻亡き後に2人の娘、世を捨てきれない親王の心境 ※「著者フォロー」をすると、連載の新しい記事が公開されたときにお知らせメールが届きます。 ■どのような気持ちで日々を送っているのだろう 宇治の邸は確かに、聞いていたよりもずっと身に染みるようなさみしさだった。宮の暮らしの様子をはじめとして、たんなる仮の宿といった風情の草の庵(いおり)である上に、宮の人柄を思うせいか、邸の何もかもが簡素に見える。同じ山里といっても、そうした山荘として心惹かれるようなのどかなところもあるのに、ここはじつに荒々しい水の音、波の響きで、昼はもの思いを忘れられそうもなく、夜はやすらかに夢を見ることもできそうもないほどすさまじく風が吹き荒れている。聖然とした宮自身にとっては、こうした住まいも俗世の未練を断ち切るのにはいいのだろうけれど、姫君たちはいったいどのような気持ちで日々を送っているのだろうか、世間並みの女らしくやさしい雰囲気とはほど遠いのではないのだろうか、とつい想像せずにはいられない住まいである。
姫君たちは仏間とのあいだに襖(ふすま)だけを隔てて暮らしているようである。好色な気持ちのある男ならば、気のあるそぶりで近づいてどのように対応するかを知りたくなるだろうし、そうでなくとも、さすがにどんな姫君たちなのかと思わずにはいられない様子である。けれども中将はそんな俗世の迷いを断ち切りたいと願って山深くまで訪ねてきたのだから、その本意に背いて、色めかしいその場限りの言葉を口にして戯れようとするのは筋違いだろう、などと思いなおして、宮のじつに感慨深い暮らしを、心をこめてお見舞いし、たびたび宇治を訪ねるようになった。そうして中将が願っていた通り、出家せず俗の身のままで山深くこもって仏道修行する心の有様や、経文のことなどを、ことさらもの知り顔をするわけでもなく、宮はじつにわかりやすく教えてくれるのである。