「源氏物語」を角田光代の現代訳で読む・橋姫③ 山里の家で薫が心惹かれた、琵琶の音と2人の姫君
山おろしにたへぬ木の葉の露よりもあやなくもろきわが涙かな (山おろしの風にたえきれず落ちる木の葉の露よりも、なぜだろう、いっそうもろくこぼれる私の涙よ) 山賤(やまがつ)の者が目を覚まして何かと騒ぐのも煩わしいと、随身(ずいじん)に先払いの声も立てさせず、家々の柴の籬(まがき)のあいだを分け入りながら、どこからともなく流れる水流を踏みつけていく馬の足音も人の耳につかぬようにと用心しているのだが、隠すこともできない匂いは風に吹かれて漂い、いったいどなたのお通りかと驚いて目を覚ます家々もあるのだった。
■はじめて耳にするような琵琶の響き 八の宮の邸に近づくにつれ、なんの楽器とも聞き分けられない音が、身に染み入るようにさみしげに聞こえてくる。いつもこうして合奏していると宮は言っていたが、機会がなく、名手と名高い宮の琴(きん)(七絃の琴(しちげんのきん))の音も聴けないでいる中将は、これはいい時に来た、と思いながら邸に入る。するとそれは琴ではなくて琵琶の響きである。黄鐘調(おうしきちょう(雅楽の調子のひとつ))に調子を整えて、ごくふつうの搔き合わせ(調子を整えるための短い曲)なのだが、場所が場所であるからか、はじめて耳にするような気がし、搔き返す撥(ばち)の音も澄んでいて風情がある。箏(そう)の琴(こと)は、胸に染み入るような優雅な音色でとぎれとぎれに聞こえる。
中将はしばらく聴いていたくてそっと隠れていたが、来訪の気配をはっきりそれと聞きつけて宿直人(とのいびと)らしい男の、気の利かなそうな者が出てくる。 「これこれの事情で宮さまは山寺にこもっていらっしゃいます。ご訪問を伝えましょう」と言う。 「いや、そのように日を限って勤行なさっている折に邪魔をするのもよろしくない。こんなに露に濡れそぼってわざわざ参上し、虚しく帰るつらさを姫君たちに申し上げて、なんとあわれな、とおっしゃっていただければ気もすむのだ」と中将が言うと、男は不細工な顔に笑みを浮かべ、