家康に警戒された筒井定次の戦略的な「曖昧」さ
■信長や秀吉から高く評価されていた筒井家 筒井家は、順慶の貢献もあり信長から高く評価を受けていたようで、娘の一人を定次の妻としたと言われています。または順慶の妻として、信長の娘か養女を迎えたとも言われています。 信長の娘は、松平信康(まつだいらのぶやす)や蒲生氏郷(がもううじさと)などの有力な勢力に嫁いでいます。筒井家も同様に、織田家の縁戚関係に組み込まれて直臣化されたと思われます。 定次は秀吉からも高い評価を受けていたようで、交通の要衝でもある伊賀国を任されています。伊賀国は江戸時代に家康の側近ともいえる藤堂高虎(とうどうたかとら)が任されることになる地域なので、畿内から外されたものの、秀吉からの評価の高さが見受けられます。 実際に、定次が上野城を設けて町を整備し発展させた結果、現在では伊賀地方の中心地になっています。 また、定次は1588年と早い段階で細川家や丹羽(にわ)家、蒲生(がもう)家など織田家の有力諸侯と共に豊臣の姓を受けています。さらに秀吉と淀殿の間に豊臣秀頼(ひでより)が誕生したことで、定次は豊臣家と遠縁ながらも縁戚関係となっています。それと同時に徳川家とも繋がる事になります。 定次はその家柄や能力を含め、豊臣政権においても有力諸侯としての存在感を有していたと思われます。 ■「曖昧」な姿勢による生存戦略の限界 義父の順慶は自身の経験上、ぎりぎりまで情勢を見守る事が戦国の世で生き残るために重要だと考えていたのかもしれません。 武田信玄の西上作戦の際には、足利義昭(あしかがよしあき)や久秀たちが織田家に反旗を翻したことで、織田方であった筒井家も劣勢に陥ります。 この時は、信玄の急死によって奇跡的に織田家に有利な方向に逆転しますが、情勢がどちらに転ぶか分からないという状況を経験しています。そのためか、本能寺の変においても懇意にしている光秀からの誘いに対し、ギリギリまで情勢を見守る姿勢を取ります。 結果としては、筒井家の存続に成功します。但し、後に秀吉からは参陣の遅れについて叱責を受け、この心労が遠因で順慶は死を早めたと言われています。そして、この戦略が日和見主義と批判される元になります。 順慶の後を継いだ定次は、先述のように豊臣方とも徳川方とも良好な関係を保っていました。関ヶ原の戦い後は、徳川家に臣従する姿勢を見せつつも、豊臣家への礼も欠かさないよう年賀の挨拶などに赴いていたようです。定次としては、江戸に幕府が開かれたとしても、まだ情勢は流動的という認識だったのかもしれません。 しかし、この外部から「曖昧」と見える態度が家康や幕府に不安を感じさせたようです。定次は家老中坊秀祐(なかのぼうひですけ)による内部告発を発端として改易され、筒井家は御家取り潰しとなり、信用を集めていた藤堂高虎が伊賀国を領有する事になります。 さらに、1615年の大坂の陣の後に、定次は内通の疑いという理由で嫡子順定とともに切腹させられる最期を迎えます。これは定次の「曖昧」な姿勢が生んだ結末とも言えそうです。 ■中立もしくは「曖昧」な姿勢の難しさ 定次は豊臣と徳川の両家と遠いながらも縁戚関係にあったため、微妙な距離感を維持せざるを得なかったのかもしれません。 しかし、豊臣一門や恩顧の大名たちが徳川家へと明確に忠誠を示していく中、筒井家の「曖昧」に映るような姿勢は危険視されても仕方なかったと思われます。 現代でも、組織内でのもめごとにおいて中立的な立場を取るのは一時的には安全だったりしますが、勝敗が決した後に当時の態度を持ち出されて冷遇される事はよくある光景です。 もし定次が高虎のように明確に旗幟を鮮明に示していれば、九州や四国などで大名としての家名を維持できた可能性はあります。 ちなみに定次は、大坂の陣後に切腹させられた古田織部(ふるたおりべ)とも交流があったようで、これも死罪の遠因かもしれません。
森岡 健司