なぜ日本に「マンガ・アニメ文化」が生まれ育ったのか(下)
「スポ根」という時代道徳
子供は戦いが好きだ。とはいえ戦後であれば、戦争をテーマにすることはできない。刀を振りまわして人を殺す時代劇も敬遠された。子供が飛びついたのは、「鉄腕アトム」や「鉄人28号」などロボットものと、「伊賀の影丸」や「カムイ伝」など忍者ものであった。 しかし何といっても戦後マンガ最大のジャンルはスポーツである。柔道の「イガグリくん」、野球の「スポーツマン金太郎」「巨人の星」「ドカベン」「タッチ」、剣道の「ハリスの旋風」、相撲の「のたり松太郎」、ボクシングの「あしたのジョー」、バスケットボールの「スラムダンク」、女子ものではバレーボールの「アタックNo1」、テニスの「エースをねらえ!」など。 主人公の選手は、鬼コーチに鍛えられ、恐るべき「根性」を発揮するのが定番であった。いわゆる「スポ根」だ。その精神は、戦後復興から経済成長に向かう日本社会の精神性と軌を一にしていた。受験戦争も、通勤地獄も、猛烈社員も、「ど根性」でがんばるのが当たり前の時代であった。戦後日本には、戦時中の「七生報国」と同様の、「スポ根」という時代道徳があったのだ。 しかし経済成長が一段落し、ゆとり教育の時代となり、環境問題が意識されるにしたがって、テーマに変化が生じる。スタジオジブリのアニメ作品には自然をテーマにした文明批判が目立つ。他のアニメでも「時をかける少女」「サマーウォーズ」「君の名は。」など、一時のロボットものとは違う非科学的な超時空のロマンがテーマとなる。 時代とともに明らかな価値観の変化が生じている。
ファンタジーとリアリズム
天皇とマンガ・アニメを日本文化の特異点としたが、さかのぼれば、仏像もそうだろう。仏教寺院に参拝すればどこでも御本尊としての仏像を拝むことになる。日本仏教は一大偶像崇拝教なのだ。偶像を英語でいえばアイドルであるから、現代のアイドル文化にもつながる(参照:篠田正浩・若山滋『アイドルはどこから』現代書館)。こういったものを一緒に論じることには抵抗があるだろうが、総じて日本は、大陸における思想の葛藤から切り離された、ファンタジー文化の国といえないだろうか。 もちろんヨーロッパにはJ・R・R・トールキンの『指輪物語』があり、中国には三大奇書(『水滸伝』『三国志演義』『西遊記』)があり、アラビア語圏には『千夜一夜物語』があり、アメリカにはウォルト・ディズニーの作品があるが、日本のファンタジー文化とは比較にならない。 このファンタジー性を、西欧科学主義のリアリズムから批判したり、アメリカ資本主義のリアリズムから批判したり、社会主義唯物論のリアリズムから批判することは可能だろう。「神は死んだ」と、F・ニーチェが言ったように、長期的に見れば、文明のメインストリームはリアリズムに向かっている。 しかしどんなに情報技術が発達し物質主義が蔓延しても、日本人はこの文化を捨てることはないだろう。むしろそのファンタジーの魅力に他国の人を巻き込んでいくのではないか。フィギュアスケートのE・メドベージェワ(ロシア)は「セーラームーン」の大ファンであり、多くの外国人観光客がコスプレに興じている。 産業文明が壁に突き当たり、人種や宗教の摩擦がギスギスする今日、日本のファンタジー文化が、世界の平和と人類の幸福に寄与することを期待する。ガンバレ! 日本のマンガ・アニメ。 京アニ事件の犠牲者に哀悼の意を表したい。