講演3時間前に母が危篤…。「スピーチ界のアカデミー賞受賞者」が語る、受賞までの壮絶な道のり
基調講演の3時間前に母の危篤の電話
その日、私はシカゴにいました。朝の8時からシカゴで基調講演があったので、前日から泊まっていました。 朝、午前5時くらいに携帯が鳴りました。その瞬間「あ、やばい」と思いました。 そのとき母は認知症をかなり長い間患っていて、施設に入っていたのです。 几帳面でしっかりした母でしたが、言葉が出ない、私が誰かもわからない状態が7、8年続いていました。 5月くらいに胆石になって入院して、さらにそこでコロナにかかってしまって……なんだかもどかしい日々が続いていました。 電話の内容は、喉にものを詰まらせたとのこと。電話をくださったケアスタッフの方の声が緊迫していたので、 「すぐに帰らないとならない感じですか?」と恐る恐る聞いたとところ、「はい」と返事が。 その後はもうバタバタでした。緊迫したときってものすごく頭が働くんです。NYにいる夫に連絡して、すぐに飛行機をオンラインで取って、お寺にも電話して……。 しかし、飛行機の予約を夫に送ったら「7月24日になっているよ」と。1ヵ月日にちを間違えていたんです。自分でも気づいていないところで動揺していたのだと、その時に気づきました。その後、飛行機の予約は夫に任せ、母のケアスタッフの方と連絡を取りました。 午前6時になったとき、私はコンピューターも電話も全て遮断して基調講演に向けて1時間のリハーサルをしました。「プロ」としてこうするべきだと思いました。 このとき思い浮かんだのが、中村勘九郎さん。おこがましいのですが、2012年に中村勘三郎さんが亡くなった直後の勘九郎さんのお芝居を見に行ったことがあったのです。そのときに何事もなかったように演じ切る勘九郎さんのプロとしての姿を見て、感銘を受けたことを思い出しました。 「私は勘九郎だ、プロってこういうことだ」と思いながら1時間のリハーサルを集中して行いました。
究極の決断とプレッシャーのなかで
そして午前7時半にホテルでAVチェック(オーディオビジュアルチェック)が始まりました。その間もERの医師から「延命治療しますか」という電話がかかってきます。 「電気ショックを一度して心臓が動いたけれど、もう一度やるならリスクがある。お勧めはしないけれど、どうしますか」 「心臓の周りにも血が充満している状態なので抜くなら首に管をいれなければならない。やりますか、やりませんか」 どちらも答えはNO。基調講演の直前に会場の入り口で、究極の選択を迫られていました。 講演の主催者にはこのことを知らせたくなかったのですが、横にいた黒人の男性のスタッフさんには伝えました。「あなただけにしか言ってないから」と言って。誰かに話すだけでその時はすごく気が楽になりました。 それから主催者と打ち合わせをして、みんなとネットワーキングし、登壇。電話を受けてから、登壇までが45分くらいです。 そしてこの登壇が、過去の自分のスピーチの中で最高だったなと思うのです。母が絶対舞台にいたのです。 講演が終わってすぐに主催者に母のことを伝え、まずはシカゴからNYの自宅に帰りました。 その時に「あのプレッシャー」を抱え、あれだけのパフォーマンスを出せたことに“プロフェッショナルスピーカー魂はこれだ! ”と思いました。このプロスピーカー魂があればCSPにチャレンジできると確信したのです。 結局、母の死には間に合いませんでした。 母が見守ってくれた人生最高の登壇。これがきっかけでCSPに挑戦しようと思い、このスピーチをCSPに提出する基調講演に選びました。
リップシャッツ 信元夏代(ブレイクスルー・スピーキング代表)