講演3時間前に母が危篤…。「スピーチ界のアカデミー賞受賞者」が語る、受賞までの壮絶な道のり
「母の危篤の3時間後にしたスピーチが、人生最高のスピーチになった」 そう語るのは、2024年3月プロスピーカー界のアカデミー賞を受賞した信元夏代さん。 プロスピーカー界のアカデミー賞と言われる「CSP®」(Certified Speaking Professional)は秀逸なエリートスピーカーにのみ与えられる称号である。合格率は全体の17%と厳しく、CSPを保持しているのは世界で数百人のみ、日本人では信元さんが初の受賞者だ。 【写真】2015年のTED×WASEDAに登壇した信元さんは 信元さんは「日本生まれ日本育ち」にもかかわらず、国際スピーチコンテストではニューヨークの強豪を勝ち抜いて地区大会5連覇、TEDxTalkへの登壇などを経験し、世界で異文化コミュニケーションに関する基調講演に登壇している。 2021年に全米プロスピーカー協会ニューヨーク支部の理事、さらに全米プロスピーカー協会ニューヨーク支部初のアジア人理事に就任。 FRaU webでは、そんな信元さんが「伝え方」をブラッシュアップする方法を説く連載「伝え方を鍛える」を毎週月曜日にお届けしている。英語でも日本語でも、言いたいことを伝えるためには何が重要なのか、印象に残る話し方とはなにか。意識するだけでも変わるノウハウをテーマごとにお伝えいただいている。 先日一時帰国した信元さんに、日本人初のCSP受賞までの道のりをインタビュー。前編では、そもそも「プロのスピーチ」とは何か、また信元さんが自分のコンプレックスと向き合い、「伝える」という行為の本質に迫った体験について聞いた。 後編では、スピーカー界のアカデミー賞受賞までの想像を超える壮絶な道のりをお伝えする。以下、信元さんの言葉でお届けする。
CSPは想像以上の難関だった
2017年、私は乳がんの告知を受けました。2013年の国際スピーチコンテストでは日本人初の優勝、2015年にはTED×WASEDAにも出場し、プロスピーカーとしてパブリックスピーチに邁進しているときでした。 告知を受けた翌日は国際スピーチ大会の第1次予選。それでも大会に出て、予選を1位通過。ひと月後に第2次予選。それはがんの全摘手術をする予定日の3日前でした。出場し、これも1位で通過。そして第3次予選が、全摘手術の1カ月後で1位通過。無事に決勝に進出しました。 「natsuyo、なんでそんなたいへんな時にスピーチをやるんだ? 無理しなくてもいいんじゃないか?」 当時、コーチをしてくれていた1995年の世界チャンピオンのマーク・ブラウン氏は、そう心配して言ってくれました。 大変な時だから、スピーチなんてしなくていい。 でも私はこんな大変な時だからこそ、心の支えが必要でした。 たとえるならスピーチとは、胸から何百本の紐が出ていて、それがみんなとつながっているようなイメージでしょうか。大変な時だからこそ、スピーチしたい。自分のストーリーをみんなと共有して、多くの人と心と心でつながりたかったのです。 乳がんを経験したことで、「私にしか語れないストーリーがあるはずだ」と思いました。この時に伝えることの素晴らしさを改めて感じ、「スピーカーとして生きていく」、という覚悟が生まれました。 そして、プロフェッショナルスピーカーとしてNSA(全米プロスピーカー協会)のメンバーとなり、伝えることそのものを仕事にするプロのスピーカーとして歩み始めました。 NSAに所属し、CSPの存在を知りました。「私もいつかは」と思っていましたが、CSPを受けるためにはなかなか難しい条件をクリアしないといけないのです。 CSPを受けるためにまず必要なのが、過去10年間で最低250件の有償での登壇記録。日付と主催者、担当者の名前と連絡先、オンラインか対面か、その報酬額など、かなり細かい記載が必要です。 さらに5年間の間で最低5万ドルをスピーキングでの収入として得ていなければいけません。5万ドルは今の日本円にすると750万円くらいでしょうか。 登壇記録のほかに、20名以上の推薦状をクライアントからいただいて提出しなければなりませんでした。20名以上ということは、25名くらいにお願いする必要があります。 あとは年次カンファレンスに最低1回は参加していること、倫理コースを受講し倫理観念に基づいてスピーチをすること、宣誓書の提出、自分の収益モデルを書いたものの提出……などなど。 そして最後の難関が、基調講演の映像の提出。この基調講演は40分編集なしのライブ映像を提出する必要があります。この条件を全てクリアして初めてCSPに挑戦することができるのです。 CSPの合格率は全体の17%という難関。世界で数百人のみしかCSPの称号を保持していません。そのなかで日本人はゼロ。挑戦しようと思ってはいたものの、ずっと迷っていました。挑戦するきっかけになったのは、母が亡くなった2023年6月23日(日本時間で6月24日)のことです。