強く連帯し互いに寄り添い続ける、言葉を持ったチベットの女性たち―ツェリン・ヤンキー『花と夢』長瀬 海による書評
チベットの女性詩人の作品を集めた『チベット女性詩集』(海老原志穂編訳、段々社)が昨年、刊行された。そこにホワモという詩人がうたった「私に近寄るな」が収録されている。女性を欲望し続ける社会に荒々しい声で拒絶の意志を突きつけたあの詩は、チベットの女性たちがいかに生を簒奪されてきたかを告げる凄まじい作品だった。 ホワモが詩のなかでとどろかせた怒りの声は、ことによると、ツェリン・ヤンキー『花と夢』から聞こえてくる叫びなのかもしれない。 この小説はラサに生きる四人の女性を描いたものだ。父親が事故に遭い、弟の学費を代わりに稼ぐためにラサにやってきたドルカル。両親が亡くなり、よるべなさを抱えながら都会で家政婦となったヤンゾム。継母から出稼ぎに行くようにせき立てられ、四川から異民族の地に移り住んだシャオリー。無責任な恋人の子を流産し、故郷を追いやられたゾムキー。 地方から都会へと生活の場を変えた彼女たちは、やがてナイトクラブ《ばら》のホステスとなるのだが、その過程で何があったか。性的な暴力、裏切り、雇い主からのいじめに等しいいびり。男性や金持ちのような権力を握る都市の人々から凌辱された彼女たちは、じぶんという人間の価値を見失う。そしてその先で辿りついたのが《ばら》だった。 個人的には性産業に従事することを「闇に堕ちた」と呼びたくない。ただ、ここで彼女たちは紛れもなく、堕している。何に? 都会に、だ。 地方出身の彼女らはこの街で絶えず格差を自覚して生きることを強いられる。さらに女性であることで、男性によって虐げられる立場から常に逃れられない。そのことをまざまざと描く本作は、彼女たちを幽閉するラサを、資本主義と家父長制がかたち作る欲望の空間として映しだす。 人間的な尊厳の蹂躙。生の簒奪。そんな絶望のなかであえぐ四人は、しかし、諦めることはない。男たちに肉体を弄ばれても、一人の女性としての矜持だけは握って離さない彼女らは強く連帯し、互いに寄り添い続けるのだ。それが欲望に抵抗する唯一にして最大の手段である限り。 娼婦になる直前、ドルカルは叫んだ。〈権力を持った人間は、あたしたちの財産も権利も、果てはあたしたちの命までも奪っていくけど、誇りだけはあたしたちのものよ。絶対に渡さないんだから〉と。 ここに僕は、ホワモの詩に込められた憤怒の声を聞く。〈私に近寄るな/私は甘露ではない/私は欲望ではない/光り輝く真珠 それは私ではない/甘やかな唇 それは私ではない(……)〉。 言葉を持ったチベットの女性たちが、いま、世界に何を訴えているのか。奪われた自尊心を取り戻すために、何と戦っているのか。『花と夢』も『チベット女性詩集』に響くホワモの声も、その戦いの内実をつまびらかにする。時代は不変ではない。 [書き手] 長瀬 海 千葉県出身。インタビュアー、ライター、書評家、桜美林大学非常勤講師。文芸誌、カルチャー誌にて書評、インタビュー記事を執筆。「週刊読書人」文芸時評担当(2019年)。「週刊金曜日」書評委員。翻訳にマイケル・エメリック「日本文学の発見」(『日本文学の翻訳と流通』所収、勉誠社)共著に『世界の中のポスト3.11』(新曜社)がある。 [書籍情報]『花と夢』 著者:ツェリン・ヤンキー / 翻訳:星 泉 / 出版社:春秋社 / 発売日:2024年04月18日 / ISBN:439345510X 週刊金曜日 2024年6月7日号掲載
長瀬 海