ガザに「最終的解決」を許してはならない
物語にとって、巨大な破滅があった後というのは、まっさらな舞台を用意するのに都合が良い。このため「ポストアポカリプス(黙示録後)もの」と呼ばれるジャンルが存在する。今まで本連載で取り上げた中では、「新世紀エヴァンゲリオン」がセカンド・インパクトという巨大災害後の世界を舞台にしている。また、宮崎駿監督の初監督テレビ作品「未来少年コナン」は、超磁力兵器という超兵器を使った大規模な世界戦争で文明が崩壊した後の地球が舞台。同じく宮崎監督の「風の谷のナウシカ」も、「火の七日間」という最終戦争があって、文明が崩壊し環境が激変してしまった世界を舞台にしている。 この面から見ても「デデデデ」は、ユニークな作品だ。物語が始まる前に「8.31」という巨大な破滅があった、という設定は「ポストアポカリプスもの」とも言えるが、8.31前も後も、かどでとおんたんの生活に大きな変化はなく、いつもの日常が続いていく。 ただ、その日常の中に小さな変化が少しずつ堆積していき、そしてもっと大きな破滅が発生する。 とはいえ、その大きな破滅で「博士の異常な愛情」のように、すべてがきれいに消え去ってしまうわけではない。大きな破滅が起きれば、その後には大きな破滅が起きたなりのぐだぐだな日常が続いていくのである。 考えてみればそういうものなのかも、と納得してしまう。破滅の中心に近づくほど、日常は破壊され生存は危うくなり生命は毀損される。が、中心から遠ざかるほどに日常は戻って来て「破滅が起きたなりの日常」が続く。 ●大震災があろうとテロがあろうと日常は続く 1995年1月17日の阪神大震災の時、大阪近郊に住み大阪の中心部に勤務していた友人のひとりは、早朝の激震を「あー、なんだかものすごく揺れたなあ」とやりすごし、そのまま出勤した。電車が動いてなかったので、大変な苦労をして昼過ぎに会社に到着。が、仕事にならず、また大変な苦労をして帰宅した。この話を聞いた時、「お前なにやってんだよ」とあきれたものだが、本人いわく「いや、だって会社には行かなくちゃいけないと思って」ということだった。 彼の行動は「社畜根性」なのかもしれない。が、私はそれ以上に、日常というもののしぶとさを感じた。 同じ1995年の3月20日に地下鉄サリン事件が発生した時も、「なんで地下鉄が止まっているんだろう、これじゃ会社に間に合わないよ」と、多くの人が事件で止まった丸ノ内線、日比谷線、千代田線などを迂回してそのまま出勤した。 2011年3月11日の東日本大震災の時、茨城から青森にかけての沿岸は津波で大変なことになった。多くの方が亡くなられた。その後、私たちは、テレビメディアが伝える要領を得ない福島第1原子力発電所の状況を「一体どうなるのだろう」と不安におびえ、しかし目を離すこともできなかった。 が、不安の日々の中も、みんななにかしらを食べ、飲み、トイレに行っていた。 以前、本連載で「数十万年に1回の大噴火が起きると人類は絶滅する」という話を書いた(「ゲルマラジオ自作を義務教育化すべき理由を述べます」)。そこまでの規模の災害なら、通常我々が考えているような日常は消え去り、「博士の異常な愛情」が示すような終末が到来する。が、ここで人類以外の生物を視野に入れるなら、そんな破滅の後も「人類が滅んだなりの、人類以外の生物によるぐだぐだな日常が続く」と言えるかもしれない。 「なにがあろうと、どんなにひどいことがあろうと、そのようなことが起こったなりの、ぐだぐだな日常が続く」という認識は、ひっくり返せば「きれいさっぱりなにもかも片付く、最終的な問題解決などない」ということを意味する。私たちは、永遠の取り繕い、立て続けの弥縫(びほう)策の中を生きていくしかない。