ガザに「最終的解決」を許してはならない
ラスト、B-52機長のコング大佐は核爆弾にまたがり、テンガロンハットを振りまわしながら落ちていく。車椅子のストレンジラブ博士は興奮の余り大統領を「総統!」と呼ぶようになり、ついには立ち上がり「総統! 私は歩けます!(Mein Führer, I can walk!)」と叫ぶ。そして、次々に爆発する水爆の映像に英国の歌手ヴェラ・リンが甘く歌う「また会いましょう(We'll Meet Again)」がかぶさる。 また会いましょう、いつかどこかはわからないけれど晴れた日に―― 「博士の異常な愛情」を観た後に残るのは、核兵器によってあらゆるものが消え去ってしまうという絶望感だ。それは、「人類はついに自らを滅ぼす手段を手に入れてしまった」という冷戦当時のリアルな恐怖に基づいている。何発も何発も水爆が爆発してしまったら、もう後には何も残らない。 なぜラストが「また会いましょう」なのかといえば、「ひとたび核兵器の応酬が起きてしまったら、もう二度と会うことはない」からだ。ここが「デデデデ」と大きく異なる。 ●「もうぜんぶチャラにしたい」という危険な欲望 キリスト教には、「破滅の後に、神に選ばれた正しい人々のみが新たな清浄な世界を築く」という考え方がある。プロテスタントはこの考えが強く、携挙(けいきょ)という言葉もある。神が正しい人々の手をつかみ、破滅から引っ張り上げるというのだ。 「選ばれし正しい者が、破滅の向こうの清浄の地に赴く」という思想は、キリスト教に限らずありとあらゆる宗教系カルトの好むところだ。だいたいにおいて教祖は最終戦争(ハルマゲドン)は近いと訴え、最終戦争の後、正しい人のみが清浄の地に行くのだから俺に従え、と信者を集める。実際には最終戦争など起こらないので、賢い教祖は「自分の力で最終戦争は回避されたが、神の予定する最終戦争はなくならない」と語り、「最終戦争は近い」と締め切りを再設定して、信者獲得に精を出すことになる。 一部のカルトは「最終戦争でみんな死んでしまうのだから、今死のう」と集団自殺したり、「それならば清浄の地に赴くために、自ら積極的に最終戦争を起こそう」とテロを計画したりする。前者としては1978年に918人もの集団自殺を起こした人民寺院が有名だし、後者は言うまでもなく1995年に東京で毒ガスのサリンを散布したオウム真理教が代表例だ。 これは単に「自分とは関係ないカルトの問題」で片付けることはできない深刻な問題だ。人間の認知に潜むバグと言ってもいい。 なぜなら我々は皆、複雑で面倒な現実を前にして、つい「なにもかもきれいさっぱり片付いて面倒がなくなればいい」と考えがちだから。 「ドラえもん」で、のび太が「ああ、宿題が出来ていない。学校がなくなればいいのに」と考える怠惰の延長線上に、「最終戦争の向こう側に、自分にとって都合の良い新世界が広がる」というカルトの思考がある。 ちなみに「デデデデ」の世界では、「ドラえもん」類似の「イソベやん」というマンガが人気だ、という設定になっている。しかも「デデデデ」の描く物語そのものが作中作の「いそべヤン」と関係してくるという凝った二重構造になっている。 「博士の異常な愛情」は、「また会いましょう」と共に、「破滅の向こうには清浄の地もなにもないんだよ」と主張する。 そして「デデデデ」は「破滅できれいにリセットされて、きれいな新世界が広がるなんて思うな。うだうだの日常、破滅後は破滅後なりの日常が続くだけなんだぞ」と、突きつけてくるのである。