ガザに「最終的解決」を許してはならない
イスラエルを侵略者、ガザ地区住民を東京に住む普通の人々……あるいはガザ地区住民を侵略者に、イスラエルを東京に住む人々に――モザイク状に入れ替えながら、読み解くと、「デデデデ」の描く世界の終末はガザの現状に見事に重なる。 いや、それだけではない。ろくな説明も受けずにあやふやな期待を抱いて地球に送り込まれ、結果として地獄にたたき込まれる侵略者は、まるっきり昭和前期の海外移民や、満蒙開拓青少年義勇軍そのものなのだ。俺も行くから君も行け 狭い日本にゃ住みあいた(馬賊の歌)――これだ。 かどでとおんたんも、彼女らと同じ社会を生きる人々も、それどころか正体定かならぬ侵略者も、等しくこの世界でさまよっているのだ。 原作は2014年から2022年にかけて描かれているので、ガザ地区の現状を意識したものではありえない。 原作者がこのような物語を描こうとした動機は、2011年3月11日の東日本大震災と福島第1原子力発電所の事故、その後の世界の終末的雰囲気にあると断言してよいだろう。作中で母艦のもたらした災害は「3.11」ならぬ「8.31」と呼ばれる。A爆弾の「A」はAtomic:原子力であろうし、FはFusion:核融合であろう。 が、それだけでもない。映画化発表は2023年春なので、映画の企画はおそらくその2、3年前、2020年から2021年あたりに始まっているはずだ。企画化と脚本執筆のタイミングで、ロシアのウクライナ侵攻が起きているのである。「デデデデ」の描く、破滅の予兆をはらんだ日常は、ロシア侵攻前のウクライナでも発生していた。 それらすべてを意識し、流し込み、描き込んで、その上で「デデデデ」という映像作品が訴えかけてくるのは、「世界の終末は日常の中から現れる。そして破滅が来ても、なにもかもきれいさっぱり終わりにはならない。終末のあとも、うだうだで最低な日常は続く」ということだ――そう私は読み解く。 新しい表現に出合った時、過去の表現に似たものを探して、「ああ、昔のこれと同じか」とやるのは、ありがちだが、基本的には禁じ手だ。過去に親しんだ表現と同じということにして、自分が安心したいだけだからだ。 とはいえ、類似の過去の作品は、新しい作品を理解するにあたっての補助線としても使える。幾何学の問題が、補助線を一本引くだけできれいに解決できるように、上手にみつけた過去の類似作は、新しい作品の持つ本質的な新しさを照らし出してくれる。 ●「博士の異常な愛情」との類似と差異 というわけで、「博士の異常な愛情 または私は如何にして心配するのを止めて水爆を愛するようになったか」(1964年、スタンリー・キューブリック監督)を引っぱり出す。「デデデデ」との共通点は世界の終末を描いていること。が、描かれる終末は大分異なる。 冷戦のまっ最中、米空軍の基地司令官リッパー准将が精神に異常を来し、核兵器を積んで警戒飛行中だったB-52爆撃機をソ連爆撃に差し向けて、基地に籠城してしまう。 爆撃機を呼び戻すための暗号はリッパー准将しか知らない。ソ連に核兵器が投下されれば、米本土も報復攻撃を受けてしまうことになる。いや、それどころではない。米ソ両方の自動報復システムが作動して、世界は破滅する。 米大統領は対策を協議する会議を開催する。そこに集う、ナチスドイツのために兵器開発をしていた前歴のある大統領顧問のストレンジラブ博士をはじめとした怪しい面々。 映画が公開された1964年1月は、世界が本当に核兵器による破滅の瀬戸際まで行ったキューバ危機(1962年10月)から1年3カ月しかたっていない。キューブリック監督はキューバ危機の記憶も生々しいタイミングで、ストレンジラブ博士以下「ベスト・アンド・ブライテスト」であるはずの人々が異常事態に直面して、どんどん愚行にハマっていく様子を黒い笑いと共に描きだした。