ガザに「最終的解決」を許してはならない
「最終的解決」を目指す輩を信じるな
歴史を振り返れば、「きれいさっぱり、なにもかも片付く最終的解決」というアイデアの誕生は、常に悲劇の始まりだった。典型がナチスドイツの行ったユダヤ人の組織的虐殺だろう。1933年に政権を掌握して以降、ナチスは徐々にユダヤ人の迫害を進めていったが、1942年に大量殺りく専用の強制収容所を設置して、全ユダヤ人を根絶するという計画を立ち上げる。計画推進者のひとりであるアドルフ・アイヒマンは、この計画を「ユダヤ人問題の最終的解決(die Endlösung der Judenfrage)」と呼んだ。同計画に従い、有名なアウシュビッツをはじめとした強制収容所が建設され、1945年5月のナチス・ドイツ降伏まで3年以上にわたって、組織的・計画的なユダヤ人虐殺が実行された。 が、それは最終的解決ではなかった。1948年5月、ユダヤ人国家のイスラエルが建国を宣言する。 今、パレスチナ自治区のガザで起きている虐殺(はっきり言わねばならない。イスラエルによる虐殺だ)は、ナチスが行った「最終的解決」と重なる。ネタニヤフ・イスラエル首相の脳裏には「最終的解決」という文字が点滅しているのではないかと私は想像する。同じ言葉は、ロシアのプーチン大統領や中国の習近平国家主席、あるいは北朝鮮の金正恩総書記の脳裏でもカランコロンと転がり回っているのではなかろうか、甘いカラメルシロップの香りつきで。 いや、今の世界で、最終的解決という甘美な響きの言葉を聞いている政治的指導者は、彼らだけではないのだろう。それどころか、政治的な意志決定を迫られている全ての人の脳裏で、「最終的解決」は甘い香りを放っているのだろう。 しかしながら、本当の最終的解決など存在しない。 ナチス・ドイツの最終的解決を乗り越えて建国したイスラエルが今、最終的解決まがいのことをやっている。これは「最終的解決」が不可能であることのがなによりの証拠だ。 最終的解決は次の最終的解決を呼び、終わらない最終的解決の連鎖をつくり出すだけなのである。そんな輪廻(りんね)からは、さっさと解脱しなくちゃいけない。もちろん神の携挙はない。自分の手を自分で引っ張り上げなくてはならない。 そして偉そうなことを書いた私は、「デデデデ」のおんたんのセリフを叫ぶのである。おんたんと同じく、涙を流し唾を飛ばして。 「喧嘩するなら僕がまとめて相手になってやりますよ!! そして秒速で土下座してやる!!」
松浦 晋也