海軍乙事件の全容 漂流する中将らが投棄した“機密文書”が、その後の戦局を左右した
発見された機密文書
喪失したZ作戦計画書は、戦後、全くの偶然から日本で発見された。英語が達者であった千早正隆元海軍中佐は、昭和21年(1946)から連合軍最高司令部情報部戦史課に勤務し、アメリカ軍の戦史編纂に参加していた。 ある日、千早氏は、書類の束の中から偶然にZ作戦計画書の原本を発見した。連合艦隊司令部の航空参謀の経験があった千早氏は、福留中将一行がセブ島で秘密文書を喪失したことは知っていた。しかし文書がアメリカ側に渡っているとは想像もしていなかっただけに、驚きは大きかった。千早氏は、自らが発見した文書を手にして「本当に涙が出るよ」と嘆いたという。 子細にみれば、文書には水に浸かった痕跡があり、この文書が海上で押収されたことを示していた。表紙には、分母に三〇、分子に四または五の番号が付されていた。三〇は作成部数であり、四または五は所有者の番号を示す。千早氏は、「諸条件を考えて、それが作戦参謀・山本祐二中佐所有のものとするのが常識でしょう」と述べている。 山本中佐は、海軍兵学校を二番で卒業したエリートであった。岳父の豊田貞次郎海軍大将は、「海軍乙事件」後の山本中佐は、いつも死に場所を探しているように見えた、と証言している。山本中佐は、第二艦隊の先任参謀として沖縄戦に参加し、戦死している。 ことの経緯は、次のとおりであった。福留中将と山本中佐は、現地人の船に救助される際、書類鞄を海中に投棄したが、漁夫の一人が沈んでしまう前に書類鞄を拾いあげていた。 2つの鞄は、現地人からゲリラに渡されたが、ゲリラ隊長のマルセリーノ・エレディアノ大尉は、実は日本の大学に留学した経験があり、書類についていた赤の丸秘印から、一目でそれが重要書類であることがわかった。 エレディアノ大尉から報告を受けたクッシング中佐は、オーストラリアのブリスベーンにある連合軍司令部に、「高級軍人の捕虜と重要書類の入った鞄を捕獲した」と報告した。そして、鞄に入っていたのが重要書類だと気づいていないようにみせるため、鞄についての尋問はしなかった。 クッシング中佐からの報告を受けた連合軍司令部は沸き立ち、直ちに捕虜と機密文書をブリスベーンまで移送するよう命じた。しかし、すでに日本軍に包囲されていたクッシング中佐は、機密文書は送付するが、捕虜の移送は断念し、日本軍との取引に応じた。 機密文書は、潜水艦「ハッド」でニューギニアに運ばれ、そこから輸送機でブリスベーンに移送された。 連合軍司令部翻訳通訳課では、課長のシドニー・マシビア大佐が日系二世を率いて、日本軍から押収した文書類の翻訳や日本軍捕虜の事情聴取に従事していた。 「機密・連合艦隊命令作第七三号、連合艦隊命令一九・三・八」と表記されたZ作戦計画書の翻訳作業を命ぜられたのは、ヨシカズ・ヤマダ三等技術軍曹とジョージ・ヤマシロ二等軍曹であった。二人は、日本語を解する三人の白人将校と11日間かけて22頁の翻訳書を完成させた。 翻訳書は、20部印刷され、2部がハワイの太平洋艦隊司令部に送付された。アメリカ海軍は、この翻訳書から日本海軍のマリアナ防衛作戦の内容を把握し、そして、1カ月かけてマリアナ攻撃作戦計画「フォーリジャー(略奪)」を策定した。 それでは、福留中将が携行していた機密文書は、どうなったのであろうか。現地の第三南遣艦隊司令部は、秘密文書がゲリラの手に落ちたことは確実と判断し、セブ島のゲリラが潜んでいる地域に拾得物の返還を求めるビラを配布するとともに、2週間にわたり爆撃を加えていた。さらに、潜水要員を派遣して秘密文書の回収を試みている。 このような日本軍の動きを察知した連合軍情報部は、秘密文書と鞄をわざわざ潜水艦でセブ島まで運び、押収した海域に流した。日本側がこの鞄を回収したかについては確認されていない。