海軍乙事件の全容 漂流する中将らが投棄した“機密文書”が、その後の戦局を左右した
機密文書の紛失
海に投げ出された13名のうち、泳力があった1名は岸に泳ぎ着き、セブ島の海軍部隊と連絡をとることに成功したが、3名は力尽きて亡くなった。 福留中将と山本中佐を含む9名は、7時間ほど泳いだ後に現地人の船に救助された。この時、福留中将と山本中佐は、機密書類が入った鞄を海中に投棄している。 その後、一行は現地人により、米匪軍と呼んでいるゲリラに引き渡された。ゲリラは、ゲリラ隊長であるジェームス・クッシング中佐の指揮所まで一行を連行した。 丁度この時、セブ島では、独立混成第三一旅団第一七三大隊長の大西精一中佐がゲリラ討伐作戦を展開していた。大西中佐は、クッシング中佐の指揮所を探り当て、4月10日に完全に包囲して一斉攻撃のチャンスを狙っていた。 日本軍に包囲されたことを知ったクッシング中佐は、部下と家族の身を守るため、連合軍司令部の「捕獲した捕虜は、後送せよ」という指示を無視して、大西中佐と取引することにした。 ここで、大西中佐は、クッシング中佐が日本海軍の高級将校を捕虜にしていることを初めて知った。大西中佐は、熟慮の末、クッシング中佐の申し出を受け入れて、捕虜を救出することにした。こうして福留中将一行は、無事救出され、セブ市の水交社へ移送された。 福留中将救出の報告は、直ちに軍令部に打電された。報告を受けた軍令部は、福留中将と山本中佐に帰国を命じた。二人は、マニラ経由で帰国し、4月18日に海軍大臣官邸に出頭した。古賀大将が搭乗していた一番機の消息は、全く不明であり、遭難は確実となった。
海軍が直面した4つの問題
古賀大将と連合艦隊司令部の遭難により、日本海軍は、4つの問題が同時に起きるという前例のない事態に直面した。 ①古賀連合艦隊司令長官の遭難と指揮の継承 実戦部隊の最高指揮官である山本五十六大将の戦死に続き、古賀大将が遭難したことの重大性に驚愕した嶋田繁太郎海軍大臣は、緊急会議を開催した。議論は、連合艦隊司令長官の指揮権の移譲に集中し、速やかに後任の長官を指名する必要があった。 軍令承行令に従えば、後任は支那方面艦隊司令長官の近藤信竹大将であったが、連合艦隊の外の部隊であった。かくして、太平洋の戦場から遠いジャワ島スラバヤにいた南西方面艦隊司令長官・高須四郎大将が、次の連合艦隊司令長官が決まるまでの代行を命ぜられた。 ②海軍中将という高級将校の捕虜とその処遇 福留中将は、海軍次官を議長とする糾明委員会で事情聴取された。その際、「軍規律の根底を揺るがす重大問題であるので軍法会議にかけるべき」という意見と「捕えたのはゲリラであり、正規軍と解釈すべきではない」という意見が拮抗した。また、「人材欠乏のおりでもあり、不問に付すのが妥当」という意見もあった。 処置に困った海軍は、軍令部次長・伊藤整一中将をマニラに派遣し、現地の陸・海軍の指揮官から事情聴取した。現地からは好意的な回答が得られたため、福留中将は、軍法会議にかけられず、責任は一切不問にすることになった。 さらに、福留中将が捕虜の辱めをうけながら生還したという疑惑を一掃するために栄転させることにし、第二航空艦隊司令長官に親補した。山本中佐も大佐に昇任した後に第二一駆逐隊司令に栄転した。 ③連合艦隊司令部の再建 連合艦隊司令部の要員は、明治以来、伝統的に海軍各学校の優等卒業生をあてていた。そのため、候補者は、すでに重職についている者が多く、人事異動には一定の調整期間が必要であった。 また、再建に際しては、広域化、高速化した近代海戦に対応できるよう、抜本的に編成を見直すべき、との意見も多かった。 ④機密書類の紛失と対処 福留中将は、第三南遣艦隊の参謀に「機密書類を納めた書類ケースは、現地人に奪われたが、彼ら(ゲリラ)は(機密文書に)ほとんど関心をいだいていなかった」と証言した。 そして海軍首脳にも、「ゲリラ指揮官のクッシング中佐をはじめ、ゲリラの取り扱いは丁寧で、秘密図書等に対する尋問も全くなかった」と証言した。 海軍首脳は、福留中将の証言を受け入れ、機密文書はゲリラに奪われたと推定されるが、ゲリラからアメリカ軍に渡っていない、との最終結論を出した。 結果として、海軍は福留中将と山本中佐を処罰せず、「Z作戦計画」や暗号書の変更も行なわなかった。5月3日に豊田副武大将が新連合艦隊司令長官に親補され、「Z作戦計画」を修正した「あ号作戦計画」が策定された。 情報の世界では、「漏洩した疑いのある情報は、漏洩したものとみなす」という鉄則がある。海軍首脳は、秘密漏洩については、希望的観測に終始して判断を誤った。他の3つの問題に忙殺されて、秘密漏洩の重大性を見落としてしまったのである。