海軍乙事件の全容 漂流する中将らが投棄した“機密文書”が、その後の戦局を左右した
パラオ空襲と連合艦隊司令部の退避
昭和19年3月30日、アメリカ海軍機動部隊は、のべ456機の艦載機でパラオ島を空襲した。 空襲による基地機能の喪失とアメリカ軍が上陸するとの懸念から、連合艦隊司令部は、パラオ島からフィリピンのミンダナオ島ダバオに一時後退し、最終的にサイパン島に移動することを決めた。 緊急を要するため、移動は艦艇ではなく、4000浬の航続力を有する二式飛行艇を使用することにした。搭乗区分は、一番機に古賀大将、上野権太機関大佐、首席参謀・柳沢蔵之介大佐、航空参謀・内藤雄中佐、航海参謀・大槻俊一中佐、副官・山口肇中佐、柿原饒軍医少佐、暗号長・新宮等大尉であった。 二番機に、参謀長・福留繁中将、大久保信軍医大佐、宮本正光主計大佐、奥本善行機関大佐、作戦参謀・山本祐二中佐、水雷参謀・小池伊逸中佐、気象参謀・島村信政中佐、航空参謀・小牧一郎少佐が搭乗した。福留中将と山本中佐は、Z作戦計画書、暗号書、艦隊司令部信号書を携行していた。 二機の二式飛行艇は、3月31日午後5時にサイパン島を離水し、午後9時にパラオ島に到着した。 待機していた司令部要員は、それぞれ二式飛行艇に搭乗した。計画では、パラオ島で給油する予定であったが、空襲警報が発令されたため、急遽出発することになり、無給油のまま二機は離水した。 不運なことに、二番機の副操縦手は、慌てていたために、離陸する際にピトー管の覆いをとることを忘れていた。空襲警報は、飛来した二式飛行艇を混乱の中で敵機と誤認したことによる誤報であった。 一番機の機長は、パラオ─ダバオ間の航路を熟知していたが、二番機の機長は、全くの不案内であったため、一番機の誘導で飛行する予定であった。 しかし、離水直後に巨大な積乱雲に行く手を阻まれ、二番機は一番機を見失った。こうして、二番機は、燃料に余裕がなく、しかも航路に不案内なまま夜間にダバオに向かった。やがて前方に黒雲が発生し、二番機は、密雲に突入した。機体は激しい雨にうたれ、大きく動揺を始めた。機長は、機体を上昇させて北方に向けて飛行した。 4月1日午前零時30分、二番機はようやく密雲を抜けた。天測した結果、機体は推測位置から160浬北を飛行していた。飛行経路が航路から北方へ逸脱していることを確認した福留中将は、ルソン島のマニラへ向かうよう指示した。しかし、機長が残燃料を確認したところ、30分の飛行時間分しか残っていなかったため、最寄りのセブ島に向かうことにした。 二番機は、セブ島に接近したが、闇夜で海面の視認が困難だったので、機長は強行着水を決心した。ピトー管の覆いがついたままであったので、正確な気速が得られなかった。午前3時頃、二番機は高度50メートルから墜落して海面に激突し、大破炎上した。