<新常識>戦国時代の始まりは「応仁の乱」ではない?発端は足利成氏が上杉憲忠を謀殺したことで…歴史研究家・河合敦が解説!
◆享徳の乱のはじまり そして1454年、「急な用事があるので、すぐに来てほしい」と足利成氏は、上杉憲忠を自分の屋敷に呼び出した。 どううまくおびき寄せたのか不明だが、憲忠は疑うことなくわずか22人の供を連れただけで、のこのこ成氏のもとへ出向いてしまう。 ちょうど、憲忠の重臣・長尾景仲(ながおかげなか)は、相模国長尾(神奈川県横浜市)に出向いて不在だった。おそらく成氏方はその隙をついたのだろう。 やって来た憲忠は、結城成朝(しげとも)、武田信長、里見義実(よしざね)といった成氏方300騎の襲撃を受け、あっけなく成朝の家来・金子兄弟に討たれ首をもがれてしまった。まだ、22歳だった。 同時刻、憲忠の屋敷にも成氏方の岩松持国の軍勢が押し寄せ、多数の上杉家臣が討ち取られた。これが享徳の乱のはじまりである。 事態を知った景仲は、すぐに長尾から鎌倉へと取って返し、憲忠の妻子を実父の上杉持朝(もちとも)の屋敷に避難させたあと、上野国(群馬県)へ走って兵を募るとともに、越後国(新潟県)守護で上杉一族の房定(ふささだ)に応援を求めた。
◆一進一退の攻防 憎き上杉憲忠を屠(ほふ)った足利持氏は、翌年の正月早々、鎌倉を発って上杉氏の拠点である上野国を目指して北上していった。 これを知ると、長尾景仲も上野国から兵を率いて武蔵国(東京都ほか)へと南下した。そして成氏の拠(よ)る高安寺に攻めかかったのである。 武蔵国分倍河原、高幡において両軍の激戦が展開され、一進一退の攻防が繰り返された。 が、やがて成氏方の結城成朝軍の奮戦によって上杉軍が劣勢に陥り、上杉憲顕(のりあき)、上杉顕房(あきふさ)ら上杉一族が敗死、ついに上杉軍の敗走が始まった。 逃げる同軍を追って足利軍は常陸国(茨城県)まで到達、景仲らが籠もる小栗城を包囲した。 同城は非常に頑強であったが、成氏みずからが城攻めに加わり、同年5月、ついに小栗城を陥落させた。このおり、長尾景仲は下野国(栃木県)へ逃走した。 この成氏の関東を乱すような軍事行動に対し、室町幕府は追討軍の派遣を決定。長尾景仲の依頼に従い、京都にいる憲忠の弟・房顕(ふさあき)を新たな関東管領に任じ、追討軍の総大将に任命した。 房顕は同年4月、上野国平井城に入った。さらに同月、駿河国(静岡県)守護の今川範忠(のりただ)ら幕府軍が京都を出立、6月には鎌倉へ侵攻し、成氏方の軍勢を撃破して成氏の居所を焼きはらった。 この動きに元気づいた景仲ら上杉軍は、越後から援軍に来た上杉房定らと合流、にわかに勢力を回復させた。 さらに11月には、後花園天皇が正式に成氏追討の綸旨(りんじ)を発した。これにより、鎌倉公方・足利成氏は朝敵となってしまった。