<新常識>戦国時代の始まりは「応仁の乱」ではない?発端は足利成氏が上杉憲忠を謀殺したことで…歴史研究家・河合敦が解説!
◆戦国時代へ突入 だが鎌倉公方に心寄せる関東武士は多くおり、成氏は下総国古河(茨城県)に御所を定め、古河公方を名乗ってその後も上杉勢力と戦い続けた。 そこで室町幕府の八代将軍足利義政は、1457年に異母兄である足利政知を還俗(げんぞく)させ、翌年、正式に鎌倉公方として派遣したのである。しかし、成氏派の勢力が強く、政知は鎌倉へ入ることができず、伊豆の堀越を拠点とした。 こうして鎌倉公方は成氏の古河公方と政知の堀越公方に分裂、さらに関東管領上杉一族も山内上杉と扇谷(おうぎがやつ)上杉に分かれ、それぞれが離合を繰り返しながら抗争するようになり、関東は戦国時代に突入したのである。 この混乱を見た駿河・遠江(静岡県東・中部)の守護大名今川氏の重臣・伊勢新九郎(北条早雲)は、1493年、伊豆に乱入して堀越公方を滅ぼし、さらに小田原城を落として相模国へ進出、古河公方、両上杉氏と対立・和解しつつ、勢力を関東に伸ばしていく。 いずれにせよ、1454年に享徳の乱が始まり、関東の戦国時代が幕を開けたのである。 ※本稿は、『逆転した日本史~聖徳太子、坂本竜馬、鎖国が教科書から消える~』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
河合敦