日本がアメリカに“かなわない”根本的な理由、自民総裁選の議論も日銀記者会見もつまらない
つまり、問題は、日本社会、日本文化とまで言ってもいいかもしれないが、そこにある根本的な問題なのだ。 例えば、「モノ言う株主」という言葉があるが、つまり、質問を株主総会でする、経営陣に質問をする、何かを言う、という時点で、それは反対、ということなのだ。日本では議論は存在しない。口を開く、ということは文句か反対か非難、攻撃なのである。 官僚答弁、という言葉があるが、国会での論戦は、政治家の先生方が大臣となった瞬間に官僚的な答弁になる。あれは、官僚が答弁を作成しているから官僚答弁になるのではなくて、あの場では、言質を取られないことだけが重要なので、政治家も答える側になった瞬間に官僚的になるのだ。
官僚答弁に終始していた大臣が、野党になり、質問者になると、突然、攻撃、アジテーションになるのは、何も二重人格なのではなくて、優秀な政治家であり、大臣であるということなのだ。 ■「わな攻撃と防御」の日本、建前を全力で議論する欧米 だから、議論はどこにもない。国会論戦、というがあれは誰もが知っているように、相手にエラーをさせるためのわな攻撃と、落とし穴にかからないようにできるだけ無駄に動かないようにする防御とのプロの戦いなのだ。だからつまらないに決まっている。
記者会見もそうだ。かつての取締役会もそうだ。日本の多くの会議はいまだにそうかもしれない。グループミーティングと会議はまったく異なるから、まあ会議は儀式、公式の戦いでなければ、ほぼ無駄だと言っていいだろう。それが日本なのだ。 そういう社会的慣習(あるいは文化的背景:ただ文化と呼ぶのには私自身は抵抗がある)であるにもかかわらず、欧米というより英米の習慣、ルール、制度、法律をそのまま持ち込み、そうしないと遅れている、という風潮で押し込まれたから、こんな風にちぐはぐな、やってもやらなくても、実質的には意味のない会議、記者会見だらけなのだ。