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比田勝大直

「赤ちゃんポスト」はなぜ匿名を貫くのか

2017/02/20(月) 11:03 配信

オリジナル

生みの親が育てられない赤ちゃんを、人知れず、安全に手放すための「こうのとりのゆりかご」。「赤ちゃんポスト」の別名でも知られる、熊本市・慈恵病院の小さな扉には、9年間で125人の赤ちゃんが託された。誰でも匿名で赤ちゃんを預けられる「ゆりかご」には賛否両論ある。しかし、「ゆりかご」があったからこそ救われた赤ちゃんたちもいる。(ノンフィクションライター・三宅玲子/Yahoo!ニュース編集部)

小径をたどった先の、ピンクの小さな扉

鉄の門扉は、赤ちゃんを抱いた女性が手を使わずに身体で押し開けられるようになっていた。門の内側に入ると、ゆるやかな上りの傾斜の小径が奥へと続く。大人の足で54歩。その距離は15メートルほどだが、赤ちゃんを抱いてこの小径をたどる女性にとって、そのたった15メートルは、長く、遠い。

「こうのとりのゆりかご」への門は、24時間開いている(撮影: 比田勝大直)

小径のつきあたりにピンクの小さな扉「こうのとりのゆりかご」が現れた。レリーフのマリア像がうつむくように扉の横で見守る。その先には、まるで決心を確かめるかのように、もう1枚扉が待ち受ける。

2枚めの扉の向こう側にあるのが「ゆりかご」のベッドだ。そこに赤ちゃんを寝かせて扉を閉めると、もうその扉を開けることはできない。

ある母は閉ざされた小さな扉の前でじっとたたずみ、ある母は小径を小走りで去っていくという。後ろ姿には、人知れず抱えてきたそれぞれの事情と胸の内がにじむ。

9年間で125人の赤ちゃんが「ゆりかご」に

熊本市の民間病院・慈恵病院が始めた「ゆりかご」。出産した赤ちゃんをなんらかの理由で育てられない人が匿名で預けられる仕組みだ。

ベッドの手前に置かれた手紙には、預けた人が冷静になった時に病院に連絡ができるように配慮した内容が記されているという(撮影: 比田勝大直)

2006年11月、慈恵病院院長・蓮田太二(81)が「こうのとりのゆりかご」という名称でこの計画を発表した時には、全国に激しい議論を引き起こした。当時の安倍晋三首相は懸念を表明し、厚生労働省も熊本市も消極的な姿勢を示したが、赤ちゃんポストこと「ゆりかご」は2007年5月にスタートする。そして9年間で125人の赤ちゃんが預けられてきた。

「ゆりかご」は24時間365日、いつでも誰でもどこから来た人でも預けられる。2015年度は預けられた13人のうち10人が県外から連れてこられていた(不明3人)。赤ちゃんが「ゆりかご」に預けられると、慈恵病院は警察と児童相談所に通報する。駆けつけた警察官は事件性の有無を確認し、その後、赤ちゃんは児童相談所経由で乳児院に送られる。そして2歳を過ぎると18歳まで児童養護施設で育つことになる。

この日、慈恵病院産科の新生児室には34人の赤ちゃんがいた(撮影: 比田勝大直)

厚労省「子ども虐待による死亡事例等の検証結果等について」(2016年9月発表)によると、2014年度の子どもの虐待死44人のうち6割は1歳未満。そのうち15人は月齢0カ月で、母親による殺害が少なくない。こうした実状に照らすと、「ゆりかご」に預けられた125人の赤ちゃんの何人かは、「ゆりかご」がなければ命を落としていた可能性もある。

蓮田が「ゆりかご」を始めたのも、2005年から2006年にかけて熊本県内で立て続けに3件も起きた母親による子殺しの事件がきっかけだった。

「その事件の前から、連日のようにニュースで目にする親による子どもの虐待事件に胸を痛めていました。親が子どもを殺すのは虐待の最たるものだと思ったんです。産科医として何もできないことが悔しかったんですねえ」。蓮田はそう振り返った。

81歳の蓮田太二・慈恵病院院長。長年蓮田を知る石橋敏郎熊本大学シニア教授は「あの人は肥後もっこす」と形容する。石橋によれば、肥後もっこすとはよくも悪くも頑固で、一度決めたことは周囲から批難されてもやり通してしまう激しさを持った熊本の男性のこと(撮影: 比田勝大直)

蓮田はドイツの「赤ちゃんポスト」の取り組みを2004年に視察した。その「赤ちゃんポスト」は保育園によって運営されていたが、24時間体制の病院なら日本でも実現可能ではないかと考えた。そして、理念を先行させる形で「ゆりかご」を2007年5月10日にスタートさせた。

立ちすくむ母親にかける言葉

1階の「ゆりかご」の扉が開くと、その瞬間に2階のナースステーションと新生児室の壁にとりつけられた青い緊急ランプが作動する。同時に、モニターにベビーベッドの赤ちゃんの様子が映し出される。看護師はあらかじめ決められた2人体制でらせん階段を駆け下りると、1人は赤ちゃんの保護に回り、もう1人は母親の姿を確認するために「ゆりかご」の扉へと回る。

モニターには連れてきた人の姿は映らない(撮影: 比田勝大直)

ランプが作動すると、看護師たちの間に緊張が走る(撮影: 比田勝大直)

看護部長・竹部智子(49)は、6年前から「ゆりかご」に携わってきた。現場で2回に1回は立ち去りがたい様子の母親を発見するという。立ちすくむ母に「よかったら相談にのりますよ」と声をかけ、相談室へとうながす。

「赤ちゃんをここまで連れてきてくださってありがとうございます。大変だったでしょう」。いつも、こんな感謝の言葉から竹部は会話を始める。

「ここにくる人たちは、ほとんどが未成年、未婚、貧困といった問題を抱えた女性です。望まない妊娠を誰にも相談できず、人知れず出産しています。彼女たちは、妊娠計画、人工妊娠中絶など、何度かあったタイミングで決断ができないまま産むしかなかった。その彼女たちが、育てられないけれど、この子に生きてほしいと願って、産後のくたびれた身体で赤ちゃんを連れてきたその必死な思い。子どもに生きてほしいという選択をした彼女たちの勇気を讃えたいという気持ちです」

竹部看護部長は、か細い声で、やさしく静かに話す(撮影: 比田勝大直)

初めて「ゆりかご」で赤ちゃんに対面した時、看護師として長年現場で経験を積んできたにもかかわらず、竹部は手足が震え、涙が止まらなかった。さまざまな感情がこみあげてくる中、「元気に連れて来てもらってよかったね」と赤ちゃんに語りかけたという。

夜更けに「ゆりかご」にたどり着いた女性が涙を流しながら話す自身の物語に耳を傾けるうちに、朝を迎えたこともある。話してみると、幼少期の母親との関係のつまずきをひきずっている女性も少なくないという。

自宅出産した人が多いため、会陰に裂傷が入っている場合や、子宮内に胎盤や卵膜が残っていることがあり、慈恵病院では母体の処置や治療を行う。

望まない妊娠「人に知られるくらいなら死にます」

「ゆりかご」にかかる年間約2000万円の運営費用は寄付と自費で賄われてきた。生まれてくる命は等しく大切にされなければならない、そして助かった赤ちゃんに幸せになってほしいという蓮田の強い願いには、慈恵病院の成り立ちが影響している。

右手に立つ本館の裏の丘に、修道院と老人介護施設がある(撮影: 比田勝大直)

慈恵病院の歴史は1898(明治31)年にマリアの宣教者フランシスコ修道会がハンセン病療養所及び施療院をつくったことに始まる。その後、児童養護施設、老人ホームなどが運営されてきた。

1969年、蓮田が慈恵病院に赴任した時、病院内には看護師の資格を持つシスターたちが献身的に患者に寄り添う姿があった。その慈恵病院で産科医として3万5000件のお産に立ち会う中で、「神の差配としかいいようのない」奇跡的に命が助かる場面に何度も遭遇する。

一方、「産後うつ」で患者が自殺するというショックを体験し、産む立場を理解し寄り添うことの大切さを痛感する。

「ゆりかご」事業を始めた時、71歳の蓮田は望まない妊娠をした女性たちの「誰にも知られたくない」という激しい思いを目の当たりにした。

「ある時、『もう生まれそう』という女性から相談の電話がかかってきたんですが、慈恵に来るには間に合わない。そこで別の病院を紹介しようとしたら、『人に知られるくらいなら死にます』というんですね。それくらいに恥ずかしいことをしてしまったという思いなんです」

「ゆりかご」の扉を開けることをためらい、インターホンを押す母も(撮影: 比田勝大直)

「ゆりかご」になら匿名で預けられる──。そのすがる思いが、飛行機や新幹線、あるいは自らハンドルを握って、人知れず産んだ赤ちゃんを託しに来させる。

「ゆりかご」より大きく広がる電話相談

だが、「ゆりかご」は蓮田が発足当初考えていたように進んだわけではなかった。蓮田は預かった赤ちゃんを、「養親(養子縁組で親となる者)」を希望する家庭につなげたいと考えていた。だが、法制度上、「ゆりかご」に預けられた赤ちゃんは児童相談所経由で乳児院に送られるため、叶わないことがスタート直後にわかった。

そこで出た解決策が、「ゆりかご」事業の開始時に熊本市からの要請で始めた慈恵病院の電話相談「SOS赤ちゃんとお母さんの妊娠相談」だった。

全国からかかってくる相談の電話は年間6000件。10年で約10倍に増えた(撮影: 比田勝大直)

望まない妊娠をした、赤ちゃんを自分では育てられないなど、妊娠や出産の悩みを抱える女性が、全国からこの「SOS」に電話をかけてくる。そこで慈恵病院では、彼女たちの赤ちゃんと子どもがほしいという家族とを特別養子縁組でつなげるという取り組みを始めた。

この方法で特別養子縁組が成立した家庭は、10年間で約280組。「ゆりかご」の2倍以上の数に広がった。「ゆりかご」に預けられてしまった赤ちゃんと養親希望家庭をつなぐことはできない。だが、「ゆりかご」を利用せざるを得ないような、差し迫った状況を未然に防いできた可能性はある。

高口悠志くん(7)は、2009年5月に慈恵病院で生まれた。養親の高口茂雄さん(49)・ルースさん(48)夫妻は、長い不妊治療の末にようやく実子・恵美ちゃん(12)を授かったため、次の赤ちゃんを特別養子縁組で迎えることを望んだ。

高口家は、家族の間でも家の外でも、特別養子縁組による家族のつながりをオープンにしている(撮影: 比田勝大直)

茂雄さんは、養子を迎えるにあたって慈恵病院で教えられたことが忘れられない。「自分たちの望みを叶えるためではなく、育てられない女性や赤ちゃんの命を助けるために養親になるのだという心構えを説いてくれました」。厳かな気持ちで迎えた悠志くんが可愛くてたまらないという。

「悠志を産んでくれたお母さんに感謝してるよ」。ルースさんは折りにふれ、悠志くんにこう話してきた。

「悠志がいなかったら恵美は一人っ子になるところだった。きょうだいは多くてにぎやかな方がいい。悠志は宝物です」

高口家には16歳の里子と25歳の元里子がいる。実の親とは違う親子関係がすぐそばにある環境も、悠志くんが生い立ちを理解する助けとなっている。

慈恵病院が、退院する実母とルースさんそれぞれに贈ったブローチ(撮影: 比田勝大直)

出自を知る権利を子どもに保障できるか

「ゆりかご」に関するシンポジウムのコーディネーターを務めるなど、法律学の立場から関わってきた石橋敏郎熊本大学シニア教授(専門は社会保障)は、スタートから10年を迎える「ゆりかご」の今後の課題をこう指摘する。

「10年前に預けられた赤ちゃんが今年10歳。今後、成長した彼らが当事者として『親を知りたいという権利(出自を知る権利)』を主張する可能性があります。現状では、そうした可能性に対応できていない。国はもっと『ゆりかご』に関わっていくべきでしょう」

「保守的な土地柄の熊本で、当初は7割は反対だった」と石橋シニア教授。「ゆりかご」が必要な社会の背景を、さまざまな立場から横断的に議論する必要があると言う(撮影: 比田勝大直)

「出自を知る権利」は、国連・子どもの権利条約が全ての子どもに対して保障している権利である。だが、「ゆりかご」が出産した母親の匿名性を優先していなかったら、預けられた赤ちゃんはもっと少なかった可能性がある。「ゆりかご」は、命を救うための「(親の)匿名性」と「出自を知る権利(子どもが親を知る権利)」という矛盾の中で進められてきた活動だった。

矛盾を抱えるのは「ゆりかご」にたどり着いた母たちも同じだ。彼女たちは、自分では育てられない、でもこの子には生きてほしいという裏腹な気持ちに葛藤しながら、「ゆりかご」へたどり着いている。

「ゆりかご」のベッドは、赤ちゃんの身体をあたためられるように準備されている(撮影: 比田勝大直)

「ゆりかご」によって、人を認めることの難しさ、大切さ、やさしさの奥深さを考えさせられると看護部長の竹部は言う。

「『ゆりかご』に子どもを預けに来る女性には、常識で考えたら身勝手で認めがたいこともたくさんあります。でも、そこでもう一歩寄り添って考えると、彼女たちにもそうせざるを得なかった事情があることに気づく。それをどこまで理解できているのか、自問するんです」

我が子を殺すのか、それとも生きてほしいのか。

そんな人間としてギリギリの選択を突きつけられる女性たち。「ゆりかご」は、生きてほしいと全身で願った母たちを10年にわたって静かに認めてきた。竹部は彼女たちへの思いをこう語った。

「一生忘れられない小径の景色を背負って、でも、これを機にあなたの人生をがんばってほしい。そんな彼女たちに賭けるような気持ちです」

(文中敬称略)

ようやくたどり着いた母と赤ちゃんを、あたたかい灯りが迎える(撮影: 比田勝大直)


三宅玲子(みやけ・れいこ)
1967年熊本県生まれ。ノンフィクションライター。「人物と世の中」をテーマに取材。2009年3月〜2014年1月北京在住。ニュースにならない中国人のストーリーを集積するソーシャルプロジェクト「Billion Beats」運営。

[写真]
撮影:比田勝大直
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝

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