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「相対的貧困」の何が問題なのか? 実感なき数字を、それでも課題視するわけ

湯浅誠社会活動家・東京大学特任教授
(写真:アフロ)

実感なき数字

「7人に1人」と言われる、日本の子どもの貧困。

マスメディアで繰り返し出てくるこの数字を知っている人は多い。

しかしそれは「知識として」知っているのであって「実感をもって」知っているのではない。

「1600年、関ヶ原の戦い」みたいなもの

テストされれば正解は書けるが、そこに実感が伴っているかといえば、そうではない。

「そんなにいるかなあ…?」というのが正直なところだと思う。

全国各地の講演会場で聞いても、「そんなにいるかなあ…?」と感じる人が平均して7割程度。

5割を切ることはまず、ない。

子どもの貧困に比較的関心のある人たちが来る講演会でそうだから、他は推して知るべしだろう。

そしてそれは、自然で当然なことだ。

見ても「わからない」

たとえば、私の近くにも相対的貧困状態の子はいるが、外見上何か他の子と違うところがあるかと言えば、ない。

路上で暮らすストリートチルドレンではない。

とりたてて痩せてはいない。

靴をはき、服を着て、学校に行っている

高価なものではないが、かといってツギハギだらけの服ではない。

袖口も黒ずんでいないし、摩耗してテカってもいない。

自転車も持っている。

もう40年くらい前になるが、私の子ども時代には、言っては何だが見るからに「貧乏」な子がいた。

痩せていて、背が小さく、貧相で、服も汚れていて、古い木造の平屋に住み、ドアも窓も汚れていた。

目立たない子で、友だちも少なく、あまり「いじられる」こともなかった。

今でも、そういう子はいるだろう。

ただ「7人に1人」と言えば35人クラスに5人、全国に280万人

そういう子が280万人いるわけではない。

だから「そんなにいるかなあ…?」は、自然で当然な感想なのだ。

別に無関心なわけでも、見て見ぬふりをしているわけでもない

関心があっても、見ようとしていても「見えない」「気づかない」。

「いない」わけではない

でも「いない」わけではない。

政府が発表する「子どもの貧困率13.9%」というのは、数字を盛っているわけではない。

この点で思い出すのは、山梨県中央市にある田富小学校の内藤裕久校長の言葉だ。

夏休みに、厳しい家庭に食料を支援するプロジェクトを実施したところ、校長の想定の5倍の応募があった。

彼は私にこう言った。

「私自身が気付かなかったように、みんなが気付いてないんじゃないか」。

「まさかそこまでいってるとは思わないんじゃないか」。

出典:拙稿「給食のない夏休み、体重の減る子がいる」 学校関係者にできること

「まさか、ウチの学校はそこまでいってないだろう」という感覚。

見えなければ、そのような感覚に至りやすい。

それは「まさかウチの地域は…」「まさかウチの自治体は…」でも同じだ。

赤信号と黄信号

どういうことなのか。

私は、次のように説明している。

絶対的貧困が赤信号で、相対的貧困が黄信号

赤信号は、目立つ

今にも死にそうだとか、つぎはぎだらけの服を着ているとか、あばら家に住んでいるとか、そういうのは、傍から見ても、わかるし、気づく。

学校に来なくなってしまって、家庭訪問しても親も出てこないような家庭、「家庭崩壊」を絵に描いたような状態の家庭は、学校の先生たちはみんな知っているし、子どもも親も、それほど話題にしなくても気づいているものだ。

地域の大人も同じ。

ゴミ屋敷になっていたり、周囲とのトラブルが絶えなかったりする人は、目立つ。

そこまでいけば、地域の人たちはたいがい知っているし、行政にも何らかの形で情報は伝わっている

赤信号がバンバン灯っていれば、目立つ。私たちはそこに気を取られる。

しかし、黄信号はそれほど目立たない。赤信号に気を取られるとなおさら、黄信号を見落としやすくなる。

ある学生が私に言ったことがある。

学校の先生たちは、できる子かできない子にばかりかまって、自分のような「いろいろ大変だったが、そこまではいってなかった子」は注意を払ってもらえなかった、と。

この「そこまではいってない」という実態と感覚。それが黄信号だ。

「7人に1人」という数は、この黄信号を含んでいる。

だから、280万人という規模になる。

何が問題?

しかし「そこまではいってない」のであれば、それは、なんとかしているということではないか。

本人たちが「なんとかしている」のであれば、それでいいではないか。

何かしてあげようなどと、よけいなおせっかいではないのか。

――まっとうな疑問だと思う。

何か問題があるのか。

「問題がある」という立場で開発されたのが「相対的貧困」という指標だ。

問題がなければ、この指標はそもそも開発されていない。

その立場は「死ぬわけではなくても問題なんだ」というものだ。

なぜか。

大きく2つの理由がある、と私は考えている。

1)黄信号は、赤信号予備軍である

2)持続可能な開発(発展)のためには、対応する必要がある

赤信号予備軍としての黄信号

まず、黄信号を放置すると、赤信号になりかねないということがある。

たとえば高齢者。

黄信号は「葬式に行けない」という形で灯る。

ある程度の年齢になると、お世話になった方が立て続けに亡くなるということが起こる。地域でお世話になった方が亡くなった直後に、故郷の親族が亡くなるなど。

しかし、両方には行けないという人がいる。

香典がいる、旅費がいる、次の年金支給まで1か月以上ある、という場合に、行ったら自分の生活が立ちいかなくなってしまうという人がいる。

「行くべきだ」ということは百も承知だが、行けないとなると、故人に対して大変申し訳ない気持ちになるし、情けなくもなるだろう。

また、「あの人、来てないね」と言われているんじゃないかということも気にかかる。自分が行ってないからなおさら、クヨクヨと余計なことを考えてしまう。

地域や親族と顔を合わせにくくなり、地域づきあいや親戚づきあいから撤退していく。

そうして、周囲とおつきあいのない一人暮らし高齢者ができあがる。

何年かして、この人に認知症が始まる。相談できる人もいない中で、だんだんと生活に支障が生まれてきて、ゴミの分別ができなくなり、家にゴミが溜まっていく。

そしてゴミ屋敷になる。周囲が気づいて、騒ぎ出す。これが赤信号

修学旅行に行けない

たとえば中高生。

黄信号は「修学旅行に行けない」という形で灯る。

当日参加できないのはもちろんのこととして、

自由時間にどう行動するか、班ごとに事前学習をして決めるように言われるが、その話の輪に入れない。

帰ってきてからも「あんときはああだった、こうだった」と思い出話で盛り上がるが、その輪に入れない。

中高生ともなれば、十分かわいげもないので「そんなとこ行って何が楽しいのか」みたいなことを言ってしまって、「なに、あいつ」といった感じになる。

クラスでぼっちができる。

その子が何かの拍子にターゲットになってしまい、いじめが始まる。

事件となり、学校は何やってたんだ、教育委員会はどうしたんだ、親は何をしていたのか、と騒ぎ出す。

これが赤信号

死ぬわけではないが…

葬式に行かなくても、修学旅行に行けなくても、死ぬわけではない

暮らし続けられるし、学校にも通い続けられる。

また、黄信号全員が赤信号になるわけでもない。なにくそ見返してやると奮起して、成功する人たちもいるだろう。

そういう人たちは、どんな時代にも、どんな境遇に生まれても、一定数いる。

それは立派なことだと、称えたい。

ただ、全員にそれができるわけではない、とも思う。

仮に10人に2人でも3人でも赤信号になっていけば、赤信号の数自体は増えていく

そして、各地で住民や専門職が悪戦苦闘の中で実感しているように、赤信号が灯ってしまった人の対応は、大変だ。

それは、地域と社会の体力を奪う

そしてそこから、第2の理由が出てくる。

持続可能な発展のために

相対的貧困率をとりまとめているのが、OECDという国際機関であることは、あまり知られていない。

OECDは、正式名称を経済協力開発機構という。

ここの目的は、経済成長と開発と貿易だ(OECD設立条約第1条)。

なぜ、国連の人権理事会ではなく、経済成長を目的とする国際機関が相対的貧困を調べているのか。

経済成長に関係がある指標だと思っているからだ。

なぜ、関係があるのか。

あっていい格差といきすぎた格差

これには「格差」の議論を参照するのがわかりやすい。

「相対的」とは「格差」のことだから。

格差については、大方の合意がとれている2つのポイントがある。

1つは、ある程度の格差は、個人および社会の活力の源泉であるということ。

どんなにがんばっても隣の人と収入が変わらなければ、がんばる気持ちは萎えていく。どんなによい商品を開発しても隣の会社と利益が変わらなければ、がんばる意欲は萎えていく。

ある程度の格差は、人々ががんばり、イノベーションが起こるのに必要なものだ。

もう1つは、しかし、行きすぎた格差は、世の中の足を引っ張るということ。

不安やあきらめが蔓延し、世代を超えて固定化すれば社会の流動性が失われ、むしろ世の中の活力はそがれていく。

治安も悪くなるかもしれない。

テロとか、「誰でもよかった殺人」とか。

メリット以上にデメリットが多くなる。

国連も、世界銀行もIMF(国際通貨基金)も、そしてOECDも、そのように考えている。

のびしろ指標の一つとして

では「ある程度の格差」と「行きすぎた格差」、両者の境目はどこなのか。

OECDは、それを相対的貧困率に見ている。

世帯の中央値の半分未満という算定基準を決めているのは、OECDだ。日本政府ではない。

それは「死んでしまう」という基準ではない。

にもかかわらず、なぜそこで出しているかと言えば、「この基準を下回る人たちがどんどん増えていくような国は、将来の発展に疑問符がつく」と考えているからだ。

つまり、将来的な成長・発展、その国の伸びしろの1つの指標として考えている。

だから「問題」なのだ。

「死んでしまうから、問題」なのではない。

「死なないかもしれないが、問題」なのだ。

持続可能な開発のために必要なこと

そして近年、このメッセージをより明快に打ち出した国際目標がある。

「持続可能な開発目標」(SDGs・エスディージーズ)だ。

2015年に、193の加盟国が合意した目標だ。

もちろん、日本政府も入っている。

17あるゴールのうち、第1ゴールは、次のように書かれている。

目標1 あらゆる場所のあらゆる形態の貧困を終わらせる

ただ、「貧困を終わらせる」ではなく、わざわざ「あらゆる場所のあらゆる形態の」とされているのはなぜか

それは、次のように「解説」されている。

1.2 2030年までに、各国定義によるあらゆる次元の貧困状態にある、すべての年齢の男性、女性、子どもの割合を半減させる。

「各国定義によるあらゆる次元の貧困状態」、つまり開発途上国の絶対的貧困だけでなく、先進国の相対的貧困も含むんだよと言っている。

なぜ含むのか。

それが、世界の持続可能な開発という目標に資するからだ。

見えなくても、放置しない

世界は、黄信号を問題にしている

黄信号の人たちも含めて、前を向いて強く生きていけるような環境を整えよう、と。

そして、日本の国会も、同じ考えなので、2013年に「子供の貧困の対策の推進に関する法律」を全会一致で可決した。

私たちはすでに「見えないけど、放置しない」という段階に踏み出している

たしかに実感はないし、見えないし、死ぬわけではない。

でも、それをなんとかしようという意思は失わないでいたい。

私たち自身のために。

(2018.3.2、17:06脱字修正)

社会活動家・東京大学特任教授

1969年東京都生まれ。日本の貧困問題に携わる。1990年代よりホームレス支援等に従事し、2009年から足掛け3年間内閣府参与に就任。政策決定の現場に携わったことで、官民協働とともに、日本社会を前に進めるために民主主義の成熟が重要と痛感する。現在、東京大学先端科学技術研究センター特任教授の他、認定NPO法人全国こども食堂支援センター・むすびえ理事長など。著書に『つながり続ける こども食堂』(中央公論新社)、『子どもが増えた! 人口増・税収増の自治体経営』(泉房穂氏との共著、光文社新書)、『反貧困』(岩波新書、第8回大佛次郎論壇賞、第14回平和・協同ジャーナリスト基金賞受賞)など多数。

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