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畳敷きの公民館で捧げた震災の祈り インドネシア人神父が続けたタガログ語のミサ 「ずっと忘れない」

南龍太記者
アントニウス・ハルノコーさん(2012年、岩手県大船渡市、筆者撮影)

 東日本大震災から10年と1カ月、建物や道路など町の復興は進んだ。一方で癒えない心の傷を抱える人はまだ確かにいる。

 「復旧の支援は少しずつ役割を終えていくかもしれません。でも人々の心の復活、それはまだこれからも続きます」

 外国人神父は遠くフィリピンから被災地を思い、祈りを捧げる。

希望して被災地へ

 インドネシア出身のアントニウス・ハルノコー神父(50)はフィリピンでの留学を経て、1998年に来日。日本の大学で日本語や文化、宗教を学んだ。2011年3月11日の東日本大震災の時は、教会の命により兵庫県を拠点に布教活動を行っていた。目を疑うような大津波。04年に祖国インドネシアを襲った死者・行方不明者22万人超の大津波が思い出された。

 自分に何ができるか――。居ても立ってもいられなかった。東北の被災地への転属を志願し、11年11月に岩手県大船渡市へ赴任した。

 物的な支援、精神的ケア、やることは無数にあった。在日外国人が多い地域でのミサもその一つだ。国民の80%がキリスト教徒とされるフィリピン、沿岸被災地には同国出身の女性らが多く暮らしていた。日本人を夫に持つ信者も多く、みな日本語は堪能だった。しかし想像を絶する無慈悲な津波で一変した暮らし、不安に駆られる中、安らげる場所を求めていた。震災前は教会に通っていなかったフィリピン出身者も、日曜のミサに訪れるようになった。

言葉が分かる神父さん

 ハルノコーさんはインドネシア語に加え、タガログ語と英語、日本語が話せた。赴任した翌月、福島県でタガログ語でミサをした。教会が震災で損壊し、代わりに公民館の畳敷きの一室で祈りを捧げた。

公民館でミサを行うハルノコーさん(右、2011年、提供写真)
公民館でミサを行うハルノコーさん(右、2011年、提供写真)

 ハルノコーさんのミサは安らぎそのものだった。フィリピンの人たちは母国語によるミサを待ち望んでいるようだった。涙する信者もいた。

 「タガログ語ができる神父さんがいる」。

 噂はすぐに広まり、ミサに訪れる人々は回を重ねるたびに増えていった。ハルノコーさんは週末ごとに、自ら車を運転して隣県の宮城や福島、青森の各県を訪れ、タガログ語によるミサを繰り返した。

 ミサだけではない。在日外国人が抱える、日本と自国の言語や文化のギャップからくるさまざまな悩みの相談に乗った。特に、被災地のフィリピン人女性らの多くが担っていた、介護施設のスタッフとして働けるよう心を砕いた。所属する教会組織を通じて介護資格取得のための無料プログラムなどを提供してきた。

 介護の現場で働く信者らの吉報を聞けば、我がことのように喜んだ。

ハルノコーさんのFacebookより
ハルノコーさんのFacebookより

 支援は今も続く。

2014年に離日

 いつも笑顔を絶やさず朗らかな性格なハルノコーさん。

 「ハルノコ神父様」「ハル神父さま」「ハルちゃん」――。信者や地元の人からは、親しみを込めてさまざまな呼ばれ方をした。

 タガログ語ができる別の神父が赴任したこともあり、ハルノコーさんは2014年に日本を離れた。親しかった人たちは涙まじりに見送った。

皆んな神父さまの笑顔が大好きで、大船渡に会いに伺ったのは本当に良い思い出です

 Facebookにはハルノコーさんを慕うメッセージが多く残る。

 ハルノコーさんはその後1年間、米国・シカゴの大学で神学を修めるために渡米。15年からはフィリピンで神学生の養成を担ってきた。

 その後もずっと、日本で知り合った人たちとの絆を大切にしている。年1回ほどは日本へ出張し、大阪の教会などと連携してきた。被災地の信者らとはFacebookでつながり、頻繁にコミュニケーションを取り合う。「日本のフィリピンの方に頼まれて、マニラに住む家族に会いに行くこともあります。連帯、つながりが今も続いているんですね」と話す。

 17年には東北の被災地からフィリピンのハルノコーさんの所へ、ランドセルや文房具が送り届けられた。そうした学習用品を買えない子どもたちにプレゼントするためだ。「子どもたちはとっても嬉しそうでした。日本からこんな恩返しがあるなんて」と感謝した。フィリピンの山奥の教会に通う子どもたちが受け取った時の笑顔、そうした歓喜がハルノコーさんの原動力でもある。

ハルノコーさんのFacebookより
ハルノコーさんのFacebookより

 そのほか、20年にフィリピンが台風22号によってここ数年で最悪規模の洪水被害を受けた際、大船渡などから支援物資が送られ、ハルノコーさん経由で洪水被害者らへ届けられた。

 日本を離れて以降、東北へは行けていないという。「でもまた必ず行きたいと強く願っています」とハルノコーさんは力を込める。

 今年こそと思っていた20年、新型コロナウイルスにより訪問は今まで以上に難しくなった。

コロナ禍

 取材した3月下旬、本来ならフィリピンは聖週間(Holy week)というキリスト教徒にとってクリスマスと同様に大切な時期に当たり、フィエスタ(お祭り)で賑わいを見せている頃だった。しかしコロナ禍でそうした祝賀ムードとはほど遠かった。加えて「昨日神学生が1人、コロナにかかってしまって…可哀想です」と悲しむ。それまで教会で感染防止対策を徹底して行っていたミサも当面、できなくなった。

 肩を落とすものの、「つらいのは患者さん。そして医療の現場に立つフロントライナーの方々には感謝するばかりです。自分の命を捧げているお医者さん、看護師さん、その方々の犠牲は尊いです。神様の豊かな祝福がありますように」。

 早くコロナが終息するように、毎日願い、天に祈る。

ともに歩む

 コロナ禍で迎えた震災10年の3月11日、ハルノコーさんは被災地へ向けて祈りを捧げた。

ハルノコーさんのFacebookより
ハルノコーさんのFacebookより

 「震災10年、新しい歩みをされている方々はいるでしょう。でも10年間ずっと、今も苦しんでいる方々もいらっしゃいます。日本人であっても日本人でない方も、私は復活に向けて一緒に歩みを進めていきたいと思います。復旧支援は少しずつ終わっていくかもしれません。ただ復活という、もう一度命を新しくすることはまだ続けている人がいらっしゃいます」

 そしてこう続けた。

 「ずっと忘れません。心の中でいつも言っています。『あなたとともに歩んでいきたいよ』」。

 いつかまた日本へ――。ハルノコーさんの望みだ。

提供写真
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記者

執筆テーマはAI・ICT、5G-6G(7G & beyond)、移民・外国人、エネルギー。 未来を探究する学問"未来学"(Futures Studies)の国際NGO世界未来学連盟(WFSF)日本支部創設、現在電気通信大学大学院情報理工学研究科で2050年以降の世界について研究。東京外国語大学ペルシア語学科卒、元共同通信記者。 主著『生成AIの常識』(ソシム)、『エネルギー業界大研究』、『電子部品業界大研究』、『AI・5G・IC業界大研究』(産学社)、訳書『Futures Thinking Playbook』。新潟出身。ryuta373rm[at]yahoo.co.jp

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