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田川基成

中古住宅、プレハブ――日本の「モスク」とイスラム社会

2017/10/12(木) 10:19 配信

オリジナル

日本には今、過去最高となる15万人以上のムスリム(イスラム教徒)がいると推計される。ムスリムの増加とともにイスラム教の礼拝施設「モスク」も増え、現在全国で100カ所以上ある。ムスリムの生活に必要不可欠なモスクの日本における有り様や、モスクを中心に成り立つムスリムコミュニティーの実態に迫る。
(写真家・田川基成/Yahoo!ニュース 特集編集部)

出稼ぎや労働者の多い郊外型モスク

長い6月の太陽がようやく沈んだ。空が深い青から暗闇へと移ろう時間、関東郊外の住宅街と田園が混ざり合う一角で、見慣れない民族服を着た男たちが静かにイスラム式の礼拝を行っている。

千葉モスクの離れの内部。寝泊まりできるようになっている(撮影:田川基成)

千葉市内を走る国道16号を東へ折れ、車で5分ほどの場所にそのモスクはある。2階建ての母屋に、離れが1棟。100坪ほどの庭。裏には空き地、向かいには赤土の畑が広がる。遠くからでは土地持ちの農家の自宅か何かにしか見えない。

ある金曜日の正午過ぎ、広々とした庭に、褐色の肌をした男たちが運転する車が次々と入ってくる。ある者は上下そろいのゆったりとした民族服を着て白い帽子を被り、ある者はラフなTシャツとジーンズ姿。作業用のつなぎを着た工員風の若者も自転車に乗りやってくる。その数は50人を超えただろうか。

民家を改装した千葉モスク(撮影:田川基成)

まず離れに入ると、しばらくして母屋へと向かう。母屋の中からは、歌声のような低い音がかすかに漏れ聞こえてくる。15分ほど経つと、一人、また一人と外へ出て、それぞれの職場へと戻っていく。建物の中で行われていたのはイスラム教の金曜礼拝だった。

千葉モスクの内部。イマーム(指導者)がウルドゥー語で説教を行う(撮影:田川基成)

千葉モスクは2010年に設立。周辺に住むムスリムたちが寄付を積み立て、中古の民家を3000万円で共同購入した。母屋は絨毯を敷き礼拝できる空間に改装、離れには礼拝前に身体を清める水場と、寝泊まりできる部屋と台所を備えた。

集まるのはパキスタンとバングラデシュの出身者が多い。1980年代後半に日本への移住が増えた彼らは在日ムスリムとしてはパイオニア的な立場にあり、特に人口が多いのだ。他にインドネシアやスリランカ、ナイジェリアなどからきたムスリムもやってくる。

礼拝後にコンビニで世間話をするバングラデシュ人のムスリムたち(撮影:田川基成)

首都圏を環状に結ぶ国道16号沿いには、白井(千葉県)、春日部、さいたま(ともに埼玉県)、八王子(東京都)、海老名(神奈川県)などにもモスクが点在する。こうした郊外に住むムスリム移民の多くは工場労働や建設・解体業、リサイクル業などに従事し、中古車や機械の輸出会社などを経営する者も少なくない。

シクダール・ジャシムさん(47)も、そんなバングラデシュ出身者の一人だ。1991年に出稼ぎのため来日。2006年に永住権を取得すると妻子を呼び寄せ、今は船橋市郊外の団地に家族6人で暮らしている。

「ワタシ日本に来たころ、モスクがあんまりなかったから、公園とか、アパートの部屋でナマズ(礼拝)してたよ。今は近くにマスジド(モスク)できて、千葉にも、東京にもたくさんあるね」

ジャシムさんと息子のアリフ君(撮影:田川基成)

ジャシムさんがオークションで購入した中古車の置き場(撮影:田川基成)

ラマダン(断食月)の礼拝や断食明けの祝祭、犠牲祭など重要な宗教行事の際には200人以上のムスリムが千葉モスクを訪れる。礼拝の後に皆でカレーやビリヤーニ(炊き込みご飯)の食事をとり、友人とおしゃべりをするのがジャシムさんの楽しみだ。息子のアリフ君(8)もお父さんと一緒にモスクにきては、他の子供たちと仲良くなって遊んでいる。

「マスジドは大事な場所。バングラの友達にも会って、ご飯食べて。日本に住んで家族だけだと寂しいから。みんなの顔見ると国のこと思い出すよ」

ラマダンの期間中、日没後に断食を終えて食事をとるムスリムたち(撮影:田川基成)

断食月の日没後の食事(イフタール)で食べる果物や揚げ物(撮影:田川基成)

100カ所を超えた日本のモスク

日本在住ムスリムの人口は過去最高を記録している。日本のムスリム社会とモスクの研究調査を行う早稲田大学の店田廣文(たなだ・ひろふみ)教授は、「2016年末の在留外国人統計から、在日ムスリム数は15万人を超えたものと推計されます。ムスリム移民の増加と、彼らが日本で所帯を持って子供が増えていることも要因です」と説明する。

早稲田大学人間科学学術院・店田廣文教授(撮影:田川基成)

モスクの数も増え続けている。「公式の統計はありませんが、全国で100カ所を超えたことがほぼ確実です。今から30年前、日本にあるモスクは2カ所だけでしたので、隔世の感があります。さらに、北海道から九州まで各地でモスクの建設計画が立ち上がっています」

国内の移民コミュニティーとしては、愛知県のブラジル移民のように団地などのひとつの場所に大勢が寄り集まって住んでいるケースがある。一方でムスリム移民は、比較的広範囲に住み、モスクを中心にコミュニティーが運営されていることが多い。

埼玉県戸田市にある戸田モスク。3階建てビルを改装している(撮影:田川基成)

福島県いわき市にあるいわきモスク。プレハブの建物を利用している(撮影:田川基成)

世代も出身地も多様な都市型モスク

JR山手線の大塚駅から商店街を抜け、坂を上ったところに大塚モスクはある。細長い土地に立つ4階建てのビルに足を踏み入れると、スパイスの香りのような異国の匂いが漂っている。

モスクの1階に女性専用礼拝室があるが、入り口にカーテンがかけられ、男性は足を踏み入れることができない。右手の階段を上がった2階と3階の部屋を覗くと、数人の男性ムスリムが絨毯の上に座って聖典コーランを読み、思い思いに祈っている。

大塚モスクで行われる金曜日の礼拝風景(撮影:田川基成)

4階の扉を開けると、事務局長のハールーン・クレイシさん(51)が、スマホを手にひっきりなしにかかってくる電話の対応に追われていた。

ハールーンさんは1991年にパキスタンから留学生として来日。大学卒業後に日本で貿易会社を立ち上げた。その後お見合いで日本人女性と結婚し、4人の息子をもうけた。大塚モスクは、ハールーンさんらが中心となって立ち上げた宗教法人日本イスラーム文化センターが中古ビルを購入して改装し、1999年にオープンした。

大塚モスクのマネージャーを務めるハールーン・クレイシさん(撮影:田川基成)

パキスタンの民族衣装サルワール・カミーズを長身にまとい、預言者ムハンマドに敬意を表して伸ばすひげが、いかにもムスリム然としたハールーンさん。話しかけてみると、物腰はとても柔らかい。

「当時、都心部には代々木の東京ジャーミイしかありませんでしたから、自分たちの近所にモスクをつくろうと思い、寄付を集めたんですね」

大塚モスクの外観。緑色のドームとミナレット(尖塔)が見える(撮影:田川基成)

大塚モスクには都内の大学や専門学校に通う留学生のムスリムが多く集まる。働いている人たちも、会社員、会社経営者、語学教師など職種はさまざま。出身国・地域も、パキスタン、バングラデシュ、インドネシアを中心に、マレーシア、ミャンマー、中央アジア、アラブ、アフリカ、欧州、米国など多様だ。近年は、戦乱にのまれた母国から逃れてきたシリア人も見かけるようになった。

大塚モスクの説教は日本語、英語、ウルドゥー語、アラビア語で行われる(撮影:田川基成)

周辺住民と協力して行った被災地支援活動

設立2年後の9月11日、米国で同時多発テロ事件が起きた。イスラム過激派組織の犯行とされたその事件の影響は日本にも及び、大塚モスクには一部の周辺住民から「武器をどこに隠しているんだ?」といった露骨な偏見が寄せられた。モスクの前を通るのを嫌がる住民もいたという。心を痛めたハールーンさんら大塚モスクのムスリムたちは、地域との融和に努めようと、町内の集まりや大塚阿波おどりなどのイベントに積極的に参加するようになった。

「東京大塚阿波おどり」の会場で肉の串焼きを販売するムスリム女性たち(撮影:田川基成)

そして、地域住民との交流が一気に進むきっかけになったのが、2011年の東日本大震災だった。

「3月11日の地震の後、被災地のために何か手助けできないかと考えたんですね。次の日にはトルコから5人の応援もやってきました。大塚モスクのまわりの日本人の方々が現地に届けるおにぎりを作ってくれることになり、すぐに支援が決まりました」(ハールーンさん)

地震発生2日後の3月13日にはおにぎり550個と150箱のカップラーメン、飲料水などをトラックに積み込み、外国人ムスリムだけで仙台市に向かった。頻発する余震、福島第一原発の爆発……多くの人にとって毎日が恐怖の連続だった。そんな非日常の中、彼らは土地勘もない東北へ向かった。

2011年5月、いわき市の避難所で被災者に炊き出しのカレーを配るムスリムたち(撮影:田川基成)

「あの大震災は、我々ムスリムにとってジハードでした。ジハードというと聖戦、戦争と思われがちですが、本来は“困難に立ち向かう”という意味。災難の時、協力して助け合うことがムスリムにとっての義務なのです」(ハールーンさん)

その後も、彼らは地域住民と協力し、3〜4日おきに被災地へトラックを送り、カレーなどの炊き出しを続けた。派遣先は主に仙台市と福島県いわき市で、その年の末まで計97回におよんだ。いわき市の避難所に同行した際、地震や原発事故が怖くなかったかとあるムスリムに聞くと、こんな言葉が返ってきた。「大丈夫です。こういう時、正しいことをしていれば神様が守ってくれるから」

聖典コーランを暗唱する(撮影:田川基成)

こうした地道な活動の成果もあり、今では周辺住民との軋轢はほとんどなくなっているという。

大塚モスクでは平日の放課後と土曜日、長期休みの間にムスリムの子供向けにアラビア語や聖典コーランについての授業を行っている。2017年4月には日本イスラーム文化センターが近隣に「インターナショナル・イスラミーヤ・スクール大塚」を開講。念願の全日制イスラム学校として、現在小学1、2年生の7人の子供が通学している。しかし国内でこうした教育活動を行うモスクは多くない。

大塚モスクに集まるムスリムの子供たち。皆でYouTubeを見ている(撮影:田川基成)

パキスタン人の夫を持つムスリムの柴原三貴子さん(49)は、大田区で7歳と9歳の息子を育てている。2013年に蒲田モスクがオープンする前は、長期休みになると息子たちを大塚モスクに通わせていた。コミュニティーの中には、イスラム教育を徹底するためにムスリムの子供としか遊ばせない親もいるという。しかし、彼女には不安もある。

「アイデンティティを意識する思春期以降、それでは逆に日本社会に適応できなくなってしまうのではという思いもあります。子供たちには、世界にはムスリム以外にもいろんな人がいることも知ってほしいと願っています」

放課後に行われている授業風景(撮影:田川基成)

9・11をきっかけにポートランドから静岡へ

子供たちへのイスラム教育や、周辺地域との交流など、日本のムスリムコミュニティーが抱えてきた問題を解決できるコミュニティーセンターを、という目的で新しく建設が計画されているモスクがある。

駿河湾を望む漁港、用宗(もちむね)港。今年、そこに近接する土地を静岡ムスリム協会が購入した。同協会は、県内に住む約3000人のムスリムをとりまとめる団体だ。

静岡市の用宗港。向こう岸に静岡モスクの建設予定地が見える(撮影:田川基成)

代表を務めるアサディヤスィンさん(38)は、北アフリカのモロッコ出身。高校生の時に渡米し、大学に進学。卒業後は、大学で知り合った日本人女性ムスリムのみわさん(42)と結婚し、西海岸オレゴン州のポートランド市で大手半導体メーカーのエンジニアとして働いていた。

ポートランドは多様性を尊重する雰囲気があり、暮らしやすい街だった。転機が訪れたのは2001年。9・11の事件の後、ムスリムに対する空気が変わった。

「モスクが監視され、ムスリムの家に警察がくるようになりました。このままアメリカで子育てをしてもいいのかとしばらく悩み、妻の実家が静岡にあったので、思いきって家族で来日することにしました」(ヤスィンさん)

アサディヤスィンさんとみわさん。静岡駅近くのビル内にある「静岡ムサッラー(礼拝所)」で(撮影:田川基成)

みわさんが当時を振り返る。「そのころ静岡にはムスリムをまとめる団体がなく、どこにコミュニティーがあるのかもわからない状態でした」

静岡県には、東部の富士市に富士モスク、西部の浜松市に浜松モスクがあるが、県央の静岡市には大きな礼拝施設がなく、周辺に住むムスリムは大きな合同礼拝があると富士、浜松まで通うか、市内で施設を借りる必要がある。

「どのモスクに礼拝に行けばよいのか、ハラール食品はどこで手に入るのか、ひとつひとつ自分たちで探していきました」(みわさん)

そうした経験をもとに、夫妻は友人たちと協力し、2010 年に静岡ムスリム協会を立ち上げた。

静岡モスクの建設予定地(撮影:田川基成)

ヤスィンさんら協会の役員は日本各地のモスクを訪ね歩いた。日本のムスリム社会では単身で来日した男性が大半を占めているので、モスクはどうしても大人の男性ムスリム中心の場所になってしまいがちだった。地域社会との交流ももっと必要だと痛感した。

ヤスィンさんらが計画しているモスクの完成予想図を見ると、礼拝施設だけでなく、図書室や教室、キッチン、宿泊施設、畳を敷いた和室もある。購入した土地からは住宅街の向こうに富士山が見える。ヤスィンさんは思い描く。

「富士山という日本のシンボルが見える場所にモスクを建てることで、海外から旅行にきたムスリムにも訪れてもらえる場所にしたい。そうして静岡の人々とムスリムの交流が生まれることを期待しています」

公園に集まって礼拝するムスリムたち(撮影:田川基成)

縁あって移り住んだ土地で

土地の購入費用は約4500万円。そのうち個人からの寄付が約40%、残りは海外でのムスリムの活動を支援する団体などからの資金だ。イスラム諸国以外にモスクが設立される場合、サウジアラビアなどイスラムを国教とする国から全面的な支援を受けることもあるが、静岡ムスリム協会では自前で寄付を集めている。

8月末には周辺住民への説明会も行った。説明会では、抵抗感を示す声も上がった。ヤスィンさんは、「静岡モスクは地域に開かれた場所にしたいので、時間がかかっても、モスクの活動についてできるだけ丁寧に説明したい」と考えている。

週末の礼拝後の大塚モスク。地域によっては、路上に大勢が集まることで住民とのトラブルになってしまうことも(撮影:田川基成)

ヤスィンさんは今、英語やアラビア語を教える語学教師として働いている。みわさんと一緒に4人の子供を育てながら、協会の仕事もこなす多忙な毎日だ。

「本当はそろそろ誰かに協会の代表を引き継ぎたいんだけど……」と笑って話しつつも、縁あって移住することになった静岡での使命も感じている。

「ポートランドのモスクは、0歳から老人まで誰でも楽しめるオープンな場所でした。そういうモスクを日本でもつくりたい。今はそれが自分のムスリムとしてのミッションだと思っています」


田川基成(たがわ・もとなり)
写真家。1985年長崎県生まれ。北海道大学農学部卒。編集者、業界紙記者として働くかたわら、2011年から写真作品を撮り始める。2014年からフリーランス。2017年、ムスリムの移民家族を撮った写真展「ジャシム一家」を銀座/大阪ニコンサロンで開催。移民や宗教、文化の変遷などに興味を持ち、日本のイスラム社会や在日外国人、長崎のキリシタン文化、北海道などをテーマに撮影を行っている。motonaritagawa.com

[写真]
撮影:田川基成
写真監修:リマインダーズ・プロジェクト
後藤勝