車上生活者――。道の駅などの無料駐車場で長期間、車で寝泊まりする人々がいる。「家賃を払えない」「人間関係がうまくいかない」。さまざまな事情を抱え、車上生活の果てに命を失う事例も出てきている。その実態は国も把握できていないという。コロナ禍のいま、仕事や住まいを失い、生活に困窮する人が後を絶たない。車上で生活する人たちの増加につながるのではないかと、支援してきたNPOも警戒する。駐車場の片隅で、いま何が起きているのか。(取材・文:NHK「車上生活」取材班/Yahoo!ニュース 特集編集部)
相談者急増――いま支援の現場では
「生活相談が前年比の10倍に増えています。こんなことは初めてです」
新型コロナウイルスの感染が、全国で再拡大を続けるこの8月上旬。福岡県久留米市のNPO法人「ホームレス支援 久留米越冬活動の会」(以下、NPO越冬の会)の代表・山本耕之さんは危機感を強めていた。緊急事態宣言が発令された4月以降、行政に生活支援を求める人が急増。久留米市でも市役所の外にまで列をなす日があったという。
NPO越冬の会では生活が困窮する人たちを支援するため、年間50人ほどの生活保護申請を行っている。そのうちの3割、15人ほどを車上生活者が占めるという。
NPO越冬の会が車上生活者の存在に気づいたのは10年ほど前。リーマン・ショックの後、「公園にずっと止まっている車がある」という相談を受けるようになった。半信半疑で各地の駐車場での見回りを始めると、ずっと同じ場所に止まっている車や、生活用品を大量に詰め込んだ車が目にとまった。そのときはじめて、「車で生活している人たちがいる」ということを認識したという。
「なぜ車で暮らしているのですか?」。NPOのメンバーが声をかけると、返ってくる言葉は様々だ。今年4月以降にNPOのメンバーが出会った車上生活者は3組。そのうちの一人は、買い物客や家族連れで賑わう道の駅で出会ったという。駐車場の片隅で、高齢の男性はこう漏らした。
「年金をもらっていても、お金がなく、アパートでは暮らしていけないんです」
男性は連れ添いの女性と共に、軽自動車で寝泊まりする生活を送っていた。
また別の中年男性は医療従事者だという。しかし人間関係がうまくいかず、職場を転々とするなかで車上生活を繰り返してきたと話した。
NPO越冬の会では、毎週のように道の駅や市営の駐車場を見回り、車上で生活する人たちへの支援を続けてきた。米や野菜とともに、飲食店に協力してもらい弁当も配った。代表の山本さんは言う。
「車上生活者への支援は、容易ではありません」
「車で生活している人がいるようだ」といった目撃情報を受け、現場に向かっても姿がないことが多い。車上生活者はホームレスと違い、車を使って移動できるからだ。居場所を転々とするため、行方がつかめなくなるケースも珍しくない。
さらに、支援を求めている人ばかりでもない。「人との関わりを避けたい」。そうした理由で車上生活に至った人も少なくないからだ。NPOが支援の手を差し伸べたとしても、握り返してもらえるとは限らない。
それでもNPOは、駐車場に足を運び続ける。「どんな些細なSOSも見逃してはならない」。危機感の根底には、かつての苦い経験がある。
車上生活を10年続けた末に......命を落とした男性
この1月、NPO越冬の会の事務局長・阿英紹さん(ほとり・えいしょう、66歳)は、山の中腹にある無縁納骨堂を訪れていた。ここには、引き取り手のない遺骨が納められている。天井までびっしりと、200以上。骨壺一つひとつには、付箋が貼られている。
「命日 平成○年○月○日、享年○歳、○○○○様」
ほとんどの遺骨は、引き取られることはない。
納骨堂に「南無阿弥陀仏」の声が響く。寺の僧侶でもある阿さん自ら、お経を上げる。この日は、10年の車上生活の末に亡くなった、ある男性の一周忌だった。
「もう少し早く出会って支援できていれば、もっと長生きされていたかなと思います」
男性の名前は、田中輝義さん(仮名)、享年89。阿さんが出会ったのは亡くなる1年前のことだという。
出会ったその日も、NPO越冬の会は駐車場の見回りをしていた。真っ暗な駐車場のど真ん中、トイレに近い場所にぽつんと、荷物を満載した古い型の軽自動車が止まっていた。
一目見て、車上生活だとわかったという阿さん。しかし、支援は拒まれた。頑なな態度から、"頑固なおじさん"というのが最初の印象だったという。それでも、NPOのメンバーで代わる代わる何度も通うと、少しずつ食料を受け取ってくれるようになった。やがて、自分のことも話してくれるようになり、男性メンバーには仕事の話、女性メンバーには家族の話を語り始めた。
なぜ輝義さんは、車上生活をするようになったのか。その背景には、孤独を深めた半生があった。
実家は代々続く木工所。3人兄弟の次男として生まれた輝義さんは、手先が器用で幼い頃から家業の手伝いをしていた。しかし後継ぎとして、ひとつ年上の長男と比べられるプレッシャーに、次第に耐えられなくなっていった。20代半ばで家を出た。
その後、上京。東京の家具製作会社に勤めたものの、どの仕事も長続きせず、各地を転々とする生活を送る。車に閉じこもるようになったきっかけは、長年連れ添った女性の死だった。夫婦で暮らしていた借家の近隣住民は言う。
「よく夫婦で犬の散歩に出かけていました。幸せそうでしたよ。でも、奥さんが交通事故に遭ってね......。亡くなったんです」
心の支えだった女性が、目の前で車にはねられた。当時、輝義さんは犬のブリーダーとして生計を立てていたが、女性を失った後、仕事をやめた。昼から酒を飲み、近所の人と目も合わせないようになる。自宅には帰らず、スーパーや公共施設の駐車場で車上生活をするようになったという。車上生活を続けて、10年。最後にたどり着いたのは生まれ故郷の福岡県だった。
「迷惑かけるね、ありがとう」
2年前の夏。NPO越冬の会のメンバーは、輝義さんから「病院に連れて行ってほしい」と頼まれた。熱中症に加え、肺気腫を患っていた。驚いたスタッフが病院にかつぎこんだ。病院で治療を終えると、また車上生活に戻った輝義さん。酸素吸入器がなければ、呼吸すら苦しい状態だった。NPOが「これからどうされますか?」と尋ねると、「ここ(車の中)にいる」とだけ答えた。
半年後の冬、容体が急変。亡くなる直前、輝義さんは病院のベッドで「迷惑かけるね、ありがとう」と、かすれた声を絞り出したという。最期まで対話を重ねたNPOの阿さんは言う。
「ろうそくの灯が消えるように、やんわり、じんわりと命を閉じられた。1年、2年と車上生活で独りぼっちでいると、だんだん孤独感というのが澱(おり)のように身体の中に溜まっていくのではないか。そんな印象を持ちました」
輝義さんは亡くなる3日前まで、車で暮らしていた。暗い道の駅の駐車場に止めた車。車内から眺めるのは、故郷の山、空、星。運転席のシートに身を横たえて、輝義さんは何を思っていたのだろう――。
初の全国調査、12の死亡事例
車上生活の果てに、命が失われる事例がどれほどあるのか。
取材班は日本全国に1160カ所ある道の駅(2020年2月時点)すべてに取材を行い、地元警察などへの裏取り取材も行った。その結果、2014年(平成26年)から2019年(令和元年)までの5年間で、少なくとも12の死亡事例が確認された。
12人のうち、少なくとも8人は60歳以上だった。女性も2人いた。富山県射水市(いみずし)では高齢の女性が車内で亡くなっているのを、道の駅の職員が発見している。女性は道の駅の駐車場に一日中車を停めていたという。1カ月以上滞在し、誰とも接することなく昼間は道の駅でテレビを見て過ごしていた。
幼子を連れて......極寒の車上生活
NPO越冬の会のメンバーは、支援を続ける中で「いまも気にかけている人たちがいる」という。
「これまでに3組だけ、"家族"で車上生活をしていた方がいました」
そのうちの一人、30代の松尾恵理子さん(仮名)から話を聞くことができた。恵理子さんが車上生活をしていたのは3年前。当時、妊娠8カ月だった。夫と1歳の長女とともに、軽自動車で車上生活を送っていたという。
車の中でどんな生活をしていたのか尋ねると、恵理子さんがスマートフォンを取り出した。見せてくれたのは、当時家族で暮らしていた車の写真だ。「本当に、ここで家族3人で暮らしていたんですか?」。思わず声を漏らした。小さな軽自動車だった。
「後部座席に子どもだけ寝かせて。大人2人は運転席と助手席を少しだけ倒し、くの字で寝ていました」
季節は冬。寒さは厳しかった。暖をとるためネットカフェでの寝泊まりも考えたが、まだ1歳の子どもが夜泣きするため、断念した。
「変に(行政に)助けを求めて、『子どもと引き離しますよ』って言われても困るし。今思えば、何も考えていなかったというか、自分本位と言われればそうですけどね......」
淡々と話していた恵理子さんの表情は、子どもたちの話になると途端に曇った。
なぜ、家族は車上生活に至ったのか。きっかけは、恵理子さんが結婚した6年ほど前にさかのぼる。
結婚したのは、20代前半。当初、夫婦は恵理子さんの実家で暮らしていた。夫は土木業の仕事をしていた。恵理子さんの父親も同業だったため、初めのうちは同居もうまくいっていたという。しかし、夫が仕事を辞めると関係は悪化。二人は実家を出て、転職を繰り返しながら各地を転々としたそうだ。
「夫は......人間関係がなかなかうまくできないんです。どこに行っても仕事が長続きしなくて......」
夫は実の両親と疎遠で、友達付き合いもほとんどないという。頼ることができたのは、わずかに交流のあった親戚だけだった。しかし、1年と経たずにその同居も解消することに。身を寄せる場所は車しかなかった。
当時、夫婦は定職に就いていなかった。毎日交代で日雇いのバイトに出掛け、残ったほうが子どもの面倒を見ていたという。それでも月の収入は10万円ほど。ガソリン代がかさむため、食事はスーパーの値引きを待ってまとめ買いしていた。
「一番つらかったのは、子どもが泣いたとき。とりあえず外であやすけど、寒いじゃないですか。大人はおなかが減ったって、寝づらくたって、寒くたって仕方ないけど。子どもには申し訳なくて」
夜。ぐずる子どもの吐息さえ白い。恵理子さんは子どもをあやしながら、暗い駐車場で「ごめんね」と繰り返したという。
恵理子さんのおなかもだんだん大きくなり、車上生活が限界を迎えようとしていたとき、ネットで、NPO越冬の会のことを知った。相談窓口に行くと、その日のうちに一時避難用のアパートに案内された。ようやく一家は、車での生活から抜け出した。その後は生活保護を受けていたが、夫婦とも正社員として職に就くことができ、今は自立した生活を送っている。
しかし、また人間関係のトラブルによって、仕事を失ってしまう恐れもある。NPO越冬の会では家族のことを気にかけていて、定期的な訪問を続けている。
恵理子さんのアパート。軒下、室内にもたくさんの洗濯物が干されている。大人の作業着と、たくさんの小さな子どもたちの服。子どもたちは人懐っこく、笑いかけてくれる。
どこにでもいる、普通の家族だ。ただほんの少し、人付き合いを続けるのが苦手な「だけ」。助けてと言える距離感に、助けてと言える人がいなかった「だけ」。先々の暮らしを見通せるほど、経験豊富でなかった「だけ」――。
小さな「だけ」がいくつも積み重なって、気がついたときには元の生活に戻るのが難しくなっている。それは、誰の身にも起こりうることではないだろうか。
経済的な問題「以外」を抱える人が多い
NPO越冬の会の阿さんはこう言う。
「車上生活者の問題は、『貧困』だけで一くくりにはできません。いわゆるホームレスの方々と車上生活の方々では、困難の性質が異なります。かつてのホームレス対策のように、とにかくアパートに入ってもらって生活保護を受けるだけでは済まないんです」
なぜ、車上生活をするほど行き詰まってしまう人がいるのか。NPOでは、10年以上車上で生活する人たちの支援をしてきたものの、この問いに対する答えをいまだに見つけられないという。
「車の中は閉ざされた世界ですから、自分の状態が見えなくなってしまう人もいると思います。『自分はこれを好きでやっている』という人もいますが、話を聞いていくと車上生活を選ばざるを得なかった、車にしか居場所がなかったという人たちがほとんどなんです」
阿さんは、いまの社会についてこう表現した。
「いまの社会に足りないのは、人に対する優しさではないでしょうか。ずいぶん冷たい社会になっているような気がしますね。勝ち組と負け組がはっきりしていて、人間の交わり自体も分断が進んでいるのではないかと思います。『勝っている者』同士、『負けている者』同士の社会があって、それを超えたところのつながりが消失している。だから、世間の『道』から外れて負け組に入ってしまうと、真っ逆さまに転落してしまう。その歪みのようなところに、車上生活者がいるんじゃないかと思います」
コロナ禍がきっかけで、仕事や住まいを失う人がいる。心身の健康を崩す人もいるだろう。たった一歩、道を踏み外した「だけ」で、戻って来られない人がいる。社会は、車上生活者を孤立させたままでよいのだろうか。
NHKスペシャルは、2020年2月15日に「車中の人々 駐車場の片隅で」(NHK総合)を放送。道の駅の駐車場で、人知れず生きる車上生活者たちを追った。この8月、放送内容を書籍化したものが『NHKスペシャル ルポ 車上生活 駐車場の片隅で』(宝島社)にまとめられた。