オードリー・若林正恭の“クーデター”と阪神ファンの父の教え
16日に放送された『のぞき見ドキュメント 100カメ』(NHK総合)は、様々な場所に100台の小型カメラを設置し、そこに映った人間模様を“のぞき見”するというドキュメント。
2018年9月に放送された第1弾では『週刊少年ジャンプ』の編集部に密着し大反響を巻き起こした。
今回のテーマは「阪神タイガース・ファン」。甲子園球場、街の居酒屋、お茶の間、タクシーなどタイガースファンが集まる広範囲の場所に100台のカメラが設置された。一喜一憂しながら試合を見る姿は、可笑しくもあり、熱く、興味深いものだった。
MCを務めるのはオードリー。VTRを見終わりエンディングで若林正恭は、自分の父親が熱烈な阪神タイガースファンだったと明かした上で子供の頃の思い出を語った。
少年・若林のクーデター
若林は、5年前の2014年10月18日の『オードリーのオールナイトニッポン』でこのエピソードを詳細に語っている。
ちょうどこの年、阪神がクライマックスシリーズを勝ち進み、9年ぶりに日本シリーズに進出していた。若林は、初めて甲子園球場で日本シリーズを生観戦したと熱っぽく語ったあとで子供の頃の話を始めたのだ。
前述のとおり、父親は熱狂的な阪神ファン。一緒にお風呂に入ると、阪神の打順を1番から9番まで言わないと出れないというような“英才教育”を受けて育ち、若林も自然と阪神ファンになっていた。
1985年の阪神優勝のときは、小学1年生。
そこから阪神は低迷していく。
60人ほどいる少年野球チームに入っていた若林だったが、東京の下町ということもあり、阪神ファンは若林含めて2人だけだった。
他は、ほとんどが巨人ファン。
毎年のように阪神は最下位だったため、バカにされ続けていた。
1990年、小学6年生のとき、若林はついに家庭内で「クーデター」を起こす。
ここで巨人に行かないところがまた若林らしい。
この年の近鉄バファローズは、野茂英雄が入団し、主砲・ブライアントが活躍していた頃。
若林は、ひとりで近鉄デパートまで行って、近鉄の帽子とメガホンを自分のお小遣いで買って、自分の部屋に飾った。
それを見つけた父親が若林に言った。
「おい、正恭。お前これとんでもないことしてるんだぞ! お前、自分がなにしてるか解ってるんだな?」
「俺は解ってる。もうみんなにバカにされるのは嫌なんだ、チケットを取った。近鉄を応援しに行く」
若林の答えを聞いた父親は言う。
「わかった、俺も一緒についていく」
負けばかりの人生
果たして、1990年4月25日、東京ドームで行われた近鉄vs日本ハム戦を若林親子は観戦に訪れた。
名将・仰木彬監督率いる当時の近鉄は、ブライアント、トレーバーを擁する猛牛打線が売り。
対する日本ハムは開幕以来2連勝と好調な柴田保光が先発。エース・西崎幸広と並び投手陣を支える技巧派だ。
この試合は、若林が想像していたものとはまったく違う展開になってしまう。
そんな若林の様子を見て父親が言う。
「正恭、なんで泣いてるんだ」
「嫌なんだ、こんな負けばかりの人生……」
「正恭、お前は阪神ファンに戻れ」
この時、若林は「なんでそんな弱いチーム応援してるの?」と聞いたのだろう。父親は若林の問いに答えた。
「俺たちは、阪神ファンでいて、勝つっていうのはホントに難しいんだっていうのを学ぶんだよ」
「分かった、俺、阪神ファンに戻る」
そうして、若林は部屋に帰って近鉄のメガホンと帽子を捨てたのだ。
「4431」
ちなみに、オードリーが大ブレイクするきっかけとなった敗者復活から準優勝した2008年の『M-1グランプリ』(テレビ朝日)のエントリーナンバーは「4431」だった。
当時、若林は売れないまま芸人をしていることに業を煮やしていた父親と半ば絶縁状態だったという。
だが、その数字を見て父親は「その数字を選んでくれたのか!」と喜んだ。
「44」のバースと「31」の掛布の背番号の組み合わせた番号だったからだ。
もちろん、エントリーナンバーは自分で選べるものではなく、ただの偶然。
けれど、これがきっかけとなり、絶縁状態が解消されていったのだ。