1998年の日本国債の急落
21日の外国為替市場で円が対ドルで下落し、一時1ドル136円台をつけた。136円台は1998年10月以来、約24年ぶりとなる。
1998年末に日本国債は急落した。のちに「資金運用部ショック」と呼ばれたものである。何が起きたのか、今一度振り返ってみたい。
資金運用部ショック
1998年7月に成立した小渕恵三政権では、次々に経済刺激策が打ち出され、国債が大量に増発された。同年11月16日に発表された20兆円規模の緊急経済対策(6兆円の恒久的減税を含む)では、財源に12兆円を上回る国債が手当てされることとなった。
翌17日に米国の格付会社ムーディーズは、日本国債の格付を最高位のAaaからAa1に引き下げると発表した。格下げの大きな理由が公的部門の債務膨張であった。
国債増発と海外格付会社による格下げで、債券市場の参加者は国債への信頼性に懸念を抱き始めた。こうしたなか、11月20日付け日経新聞に「大蔵省は1998年度の第三次補正予算で、新規発行する国債12兆5千億円のうち10兆円以上を市中消化する方針」といった小さな記事が出た。これは国債を大量に引き受けていた大蔵省資金運用部の引き受け比率が、今後大きく低下することを示唆していた。
翌年度の当初予算は減税によって税収が47兆円に減少するうえに、国債発行額が前年約2倍の31兆円あまりに達していた。翌年1月から長期国債が、月々1兆8000億円と、一気に4000億円も増額されるという見通しも出された。1999年度の国債発行額は70兆円以上、うち市中消化は60兆円以上との新聞報道もあり、大蔵省資金運用部の国債引受が減るのは第三次補正予算だけでなく、来年度も急減することが明らかになった。
さらに速水優日銀総裁(当時)が、日銀による大量の国債保有に対して「自然な姿ではない」とのコメントを出した。日銀も自ら大量に保有する国債について危惧を表明したのである。
このように需給を主体とする悪材料が重なったところで、大蔵省資金運用部が国債買い切りオペを中止すると発表したのである。これを契機に12月22日に債券先物がストップ安をつけるなど、債券相場は急落した。いわゆる資金運用部ショックである。9月に0.7%を割り込んでいた長期金利は12月30日には2%台に乗せてきたのである。
日銀のゼロ金利政策
日本の金融当局者にとって、資金運用部ショックによる債券価格の急落は避け得ないものとの認識が強かったが、日本の長期金利を危惧したのが米国の金融当局であった。日本の長期金利の上昇は、日米金利差の縮小をもたらし、米国債への日本からの投資が減少する懸念があり、生保などが日本国債の価格下落による損失をカバーするため保有する大量の米国債を売却する恐れもあったためである。
1999年2月3日に行われたダボス会議において米国サイドから、円高と日本の長期金利上昇に懸念が示され、さらなる金融緩和の必要性などを要求された。
この結果、米国金融当局の意向が伝わったことで、政府関係者から長期金利上昇抑制のために財政法で禁止されている日銀による国債引受の要請などもあったと伝えられた。日銀の速水総裁は、「国債引受は日銀の選択肢にないし、全く考えていない。新日銀法でも国債を引き受けない原則を守っていきたい」と述べている。
しかし、そうはいっても日銀も何かしら動かざるを得なかったことも確かであり、その答えがゼロ金利政策であった。1999年2月12日の金融政策決定会合において決定された実質的なゼロ金利政策であった。
さらに大蔵省も長期金利の上昇を抑制するために市場に配慮する姿勢を示し、必要とみられる手段を次々に講じていった。例えば長期債の発行を4000億円減額して1兆4000億円とし、減額分を2年債で3000億円、6年債で1000億円に振り替えた。また運用部の国債買い切りオペを再開し2月と3月で計4000億円ほど実施すると発表した。さらに国債の入札予定日をあらかじめ公表することにして市場に配慮を示したのである。
1月には国債の繰り上げ償還条項が撤廃されたが、3月からは国債の入札日程及び発行額の事前公表が開始され、また有価証券取引税、取引所税も廃止された。
長期金利がピークアウト
長期金利は1999年2月5日に2.440%をつけたが、それ以降は日銀によるゼロ金利政策や大蔵省による市場安定化策などにより低下基調となった。6月に入って1~3月期のGDPが予想を上回るなど景気回復の予測から、先物は一時ストップ安をつけるなど急落する場面もあった。
また、1999年8月に当時の小渕首相が1999年度第二次補正予算の編成を柱に積極的に景気を下支えしていく考えを打ち出したことなどから、長期金利は再び2%を超えて2.040%をつけた。しかし、これ以降、長期金利は2%を大きく超えることはなかったのである。