ショパンの国に押し寄せるウクライナ難民 日本人ピアニストが語るショパンの「戦争への怒り」
ウクライナからの多くの戦争避難民が暮らす西の隣国ポーランドは、「ショパンの国」として知られる。「ピアノの詩人」として多くの名曲を残した作曲家フレデリック・ショパンは1810年にワルシャワ郊外で生まれ、20歳までをポーランドで過ごした。その後はパリで活躍したが、ロシアの支配下にあった祖国ポーランドへの深い愛情を生涯にわたって持ち続けた。ワルシャワの国立ショパン音楽大学で学ぶ西村美穂は、そんなショパンの音楽に「戦争への怒り」を感じるという。ウクライナから避難してきた音大生らを支援する彼女が思う「音楽と戦争」とは。(敬称略)
4月初旬、ウクライナでの40日間にわたる取材を終えた私は、ウクライナの首都キーウから24時間バスに乗り、ポーランドの首都ワルシャワに着いた。バスターミナルは、ウクライナからの避難民でごった返していた。キーウ近郊からはロシア軍が撤退したものの、東部や南部ではいまだ激しい攻撃が続いていた。キーウに戻り始める避難民がいる一方で、東部や南部からは多くの避難民が逃げてきていた。2022年2月にロシア軍がウクライナに侵攻を始めてから、ポーランドには最大で250万人ものウクライナ人が暮らしていた。
ワルシャワに着いた翌日、私はすぐに国立ショパン音楽大学を訪ねた。そこで学ぶ日本人ピアニストを知人から紹介され、取材することになっていたからだ。
西村美穂はショパン音大でピアノを学びながら、講師も務めている。単身ワルシャワにやって来て9年がたつ。この日は、チェロとの協奏のレッスンを受けていた。パートナーのチェロ奏者アンテク・フロナと共に奏でるショパンの美しい音色が教室に響き渡っていた。
授業が終わると、教授のカタジナ・ヤンコフスカがひとりの若い女性を教室に招き入れた。キーウから避難してきたマルタ・パブリシィンだ。カタジナの家で家政婦をしていた女性の娘だ。ロシアの軍事侵攻が始まると、カタジナは元家政婦の家族をワルシャワに呼び寄せ、アパートを借りて住まわせているという。250万人の避難民がいるポーランドでは、ほとんどがマルタのようにポーランド人の家庭にホームステイしていた。
私は世界中で戦争や紛争を取材してきたが、多くの場合は隣国に巨大な難民キャンプが設けられ、人々は粗末なテントで不自由な生活を強いられる。ポーランドでは、明らかに事情が異なっている。
「マルタのお母さんとは長年の付き合いで、本当に素晴らしい人間です。私たちポーランド人は、ウクライナの人々のためにありとあらゆることをして助けます」とカタジナは言う。チェロ奏者アンテクの祖父母も、自宅にウクライナ避難民の家族を受け入れているという。
ポーランドの人々にとって、ウクライナ人はもともと身近な存在だ。1991年に旧ソ連から独立したウクライナは、ヨーロッパの中でも貧しく、出稼ぎ大国として知られる。ポーランドでも家政婦や掃除婦、タクシー運転手など多くのウクライナ人が働いている。美穂も日常的にウクライナの人々と接する機会が多く、親近感を持っていたという。
マルタはキーウの音楽学校の学生で、「バンドゥーラ」というウクライナの民族楽器を持ってきていた。マルタは美穂たちの前でウクライナの曲を披露した。バンドゥーラの美しい旋律とマルタの透明な歌声が交じり合い、ウクライナの大草原を思い起こさせるような郷愁を誘う。
演奏を終えると、マルタはこう語った。「『ロシア人は自分たちの兄弟だ』と父はよく言っていましたが、間違っていました。ポーランド人こそ本当の兄弟でした。こんなに温かい人たちがいるとは、夢にも思いませんでした。本当に感謝しています」
ショパン音大に民族楽器のコースはなく、カタジナはマルタが歌のレッスンだけでも受けられるよう、大学との交渉を続けている。
静岡県出身の美穂は4歳からからピアノを始め、やがてショパンのとりこになった。地域のコンクールで入賞するまでに才能を開花させ、米国に留学中の高校2年の時には現地のコンクールでも1位となった。ただ、その後は学業の道に進み、大学卒業後は一般企業に勤めた。しかしやがてそんな自分の人生を見つめ直すことになる。
「本当に自分のやりたいことは何だろうかと、改めて考えました。やはりピアノのある生活がしたい。そのことに改めて気づきました」
2013年、単身ワルシャワに渡り、難関とされるショパン音大に入学。大学近くにアパートを借り、朝から晩までピアノ漬けの生活を続けた。ショパンを学ぶのに、パリを選ぶ留学生も多い。国際都市で外国人が住みやすく、日本人も多いからだ。だが、美穂は全く逆の選択をした。旧共産圏のポーランドで暮らすことで自分を追い込み、ピアノと真剣に向き合いたいと考えたのだ。その努力が認められ、大学から講師も依頼されるまでになった。
美穂はショパンについて、こう語る。
「私がショパンを好きな理由は、限界まで繊細で、心をえぐられるような悲しみとか感動を与えてくれる作曲家だからです。そして人生の最後まで彼は、戦争に対する強い怒りと祖国ポーランドへの愛情を持ち続けていました」
ショパンが生きた19世紀前半、ポーランドはロシアの支配下に置かれていた。自由と独立を求める市民が1830年に蜂起し、国民政府を樹立。すぐにロシア軍に鎮圧され、数万人がシベリアに流刑にされたという。ショパンは旅先のウィーンからパリへ赴く途上でこの報に接し、怒り、悲しんだ。この経験が、後に「革命」などの楽曲を生み出すことになる。ショパンはロシア政府が発行する旅券の更新を潔しとせず、無国籍者としてパリでその生涯を閉じた。
ポーランドは18世紀末にロシア、プロシア、オーストリアによって3分割され、第1次大戦後に独立を回復するも、第2次大戦でナチスドイツとソ連に再び分割統治された苦難の歴史を持つ。歴史上、ポーランド人にとってロシアは大きな脅威だった。ウクライナの人々を支援しなければ、次は自分たちがロシアに攻められる。こんな潜在的な恐怖を、誰もが持っているのである。
ワルシャワ中心部にある「ショパンサロン」と呼ばれる小さなホールで、ウクライナから避難してきた3人の音大生によるコンサートがあると聞き、美穂と共に訪ねた。
そのうちのひとりオレクサンドラは、今も戦闘が続くウクライナ東部の拠点都市ハルキウの音大でピアノを学び、将来はプロを目指している。
オレクサンドラは戦争が始まって間もない3月初旬、家族と共にワルシャワに避難してきた。プロを目指すうえで、数ヶ月もピアノが弾けなくなるのは深刻だ。そんな彼女らを気遣って、サロンのオーナーが練習場所を提供し、コンサートを企画したのだ。
オレクサンドラの演奏が始まった。ショパンの美しくも激しい音色が奏でられる。髪を振り乱しながらピアノを弾く彼女の姿は、まるでショパンが乗り移ったかのようだ。フランスで祖国を思うショパンが戦争と向き合い作曲を続けたように、彼女は故郷での戦争を思いながらピアノの鍵盤を叩いているのだろう。その迫力が会場にいた人々全てに伝わったことが感じ取れた。
美穂も泣いていた。
「こんなに厳しい状況の中でも、ピアノと真摯に向き合おうとする彼女の姿に心から感動しました。自分にできることで彼女を支えたいと思います」。
演奏会が終わると、美穂はオレクサンドラに声をかけた。「ショパン音大で学べるよう、大学側と話してみる」。そう伝えた。
ウクライナで戦争が起きて、美穂のショパンへの理解も深まったという。「本当に『悲しい』音が出せるようになりました。出せるようというか、自然と自分の中から生まれたんです」
その後、オレクサンドラはショパン音大への入学が決まり、改めてピアニストとしての鍛錬を始めようとしている。一方、民族楽器奏者のマルタのショパン音大への編入は難航している。ワルシャワの街角でバンドゥーラを演奏し、日銭を得ているという。美穂はマルタをショパンサロンに紹介し、コンサートを企画したいと考えている。
ウクライナでの戦争は、まだ終わる気配がない。戦争と向き合い続けたショパン。その美しい音色がウクライナの地で再び響き渡る日が一刻も早く訪れることを願いたい。
クレジット
監督・撮影・編集 新田義貴
プロデューサー 金川雄策
製作 ユーラシアビジョン