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過激パフォーマンスで米兵に愛された沖縄ロックのレジェンド 女性写真家が見つめた素顔 #戦争の記憶

新田義貴映画監督、ジャーナリスト

2023年4月20日。オキナワンロックの礎を築いたレジェンドが、78年の生涯を閉じた。「ひげのかっちゃん」こと川満勝弘。ベトナム戦争が激しさを増していたころ、「コンディショングリーン」というバンドを率い、米兵相手に過激なステージで人気を博した。晩年、noricoという本土出身の写真家と出会い、やがてパートナーに。noricoは17年間撮り続けた写真をまとめ、7月に写真集を出版した。彼女はなぜ30ほども歳の離れたかっちゃんに魅せられ、最期を看取るまで写真を撮り続けたのか。写真家の胸の内をたどると、かっちゃんが駆け抜けた沖縄の戦後史が浮かんでくる。

米軍基地の町・コザ

沖縄本島中部にある沖縄市。「コザ」と呼ばれる中心市街地は米軍嘉手納基地に隣接し、かつては米兵相手の商売でにぎわった。

7月の週末の夜、noricoは嘉手納第2ゲートから延びる「ゲート通り」を歩いていた。バーやクラブが建ち並び、週末の夜を楽しもうと多くの米軍関係者が繰り出している。一瞬、ここが日本であることを忘れてしまうようなエキゾチックな光景が目の前に広がる。2023年12月に嘉手納基地所属の兵士が地元の少女を車で自宅に連れ込み、暴行したとされる事件が発覚したばかりで、地元メディアの姿もちらほらと見られた。

noricoは慣れた様子で兵士たちにカメラのレンズを向ける。彼らは無邪気に笑顔で応える。コザは戦後、米軍と共に生きてきた「基地の町」だ。

レジェンドとの運命的な出会い

noricoがかっちゃんと出会ったのは18年前。東京の美大を卒業し、雑誌などの写真を撮っていた。師事していた写真家の勧めで沖縄を訪れた彼女は、ゲート通りで深夜まで写真を撮っていた。最後までネオンを灯していたバーにおそるおそる入ってみると、衝撃的な光景に出くわした。カウンターに、ひげ面の大男が裸で横たわっていたのだ。

恐怖を感じながらも写真家の習性で思わずシャッターを切った。すると、店で飲んでいたバンドマンが「明日、ロックフェスがあるから撮りにきたらいいよ」とチケットをくれた。

翌日、ステージに現れたのは、前の晩にカウンターに寝ていたあの大男だった。そして、彼が沖縄を代表するロックスターであることを知る。やがてふたりは意気投合し、パートナーとして人生を共に歩むことになった。

Aサインの子供たち

1944年に宮古島で生まれたかっちゃんは、沖縄本島で出稼ぎをしていた母親を追い、小学4年生の時にコザに移り住む。母親はこの町で米兵相手の「Aサインバー」を営んでいた。Aサインとは、米軍統治下の沖縄で軍公認の飲食店や風俗店に与えられた営業許可証のことだ。町にはバーやキャバレー、売春宿が建ち並び、かっちゃんたちも店に出入りする米兵たちにチューインガムを売ったりして小遣いを稼いだという。

かっちゃんの2歳年上で幼なじみの喜屋武幸雄も、そんなひとりだ。幸雄の母親は、ゲート通りと並ぶ繁華街の「センター通り」で売春宿を営んでいた。さすがに店には住めないので、幸雄は町の外れに親が借りてくれた部屋にかっちゃんと2人で暮らしていたという。2人は店のジュークボックスから聞こえてくるロックンロールに夢中になり、1963年に沖縄初の本格的ロックバンド「ウィスパーズ」を結成する。米軍がベトナム戦争に本格介入しようとしていた時だ。

戦闘が長引くにつれ、米兵たちが聴く音楽も激しいハードロックに変わっていった。後にマリーwithメドゥーサなどのバンドで活動し、沖縄ロック協会の初代会長も務めた幸雄は言う。

「僕らの母親は生きるために米兵相手の商売をして子供を育てた。僕らもまた米兵相手にロックを演奏して生き抜いてきた。そういう意味じゃ米兵たちの、あるいはベトナム兵たちの生き血を吸って生きてきたのが、僕らAサインの子供なのかもしれません」

コザ騒動と外出禁止令「コンディショングリーン」

1970年12月、コザの人々の米軍統治への不満が爆発した事件が起きる。米兵が運転する車が、地元住民をはねたことに端を発した「コザ騒動」である。米軍憲兵の威圧的な現場検証に、集まった住民たちが反発。軍関係の車両80台以上に放火、嘉手納基地に乱入するなどして怒りをぶちまけた。背景には、米軍関係者による暴力や強姦などの人権侵害にさらされてきた沖縄の人々の鬱積(うっせき)した怒りがあった。

かっちゃんはこの夜、沖縄本島北部の辺野古でライブをしていて、現場には居合わせなかった。一方、幼なじみの幸雄は米軍車両をひっくり返して回ったという。学生時代に祖母が米軍車両にひき殺されていた幸雄もまた、怒りを爆発させたのだ。

幸い死者は出なかったが、事件は米軍司令部に衝撃を与え、すぐに「コンディショングリーン」と呼ばれる基地からの外出禁止令が出された。米兵相手にロックを演奏していたかっちゃんたちは、たちまち仕事がなくなってしまった。振り上げた拳が、Aサインの人々の首を締める皮肉な結果に。ところが、かっちゃんはこの苦境を逆手に取り、自分の新しいバンドに「コンディショングリーン」と名付けたのだ。どんな逆境も糧にして生き抜いてきたかっちゃんの真骨頂であった。

ベトナムに赴く米兵たちを熱狂させたステージ

コザはベトナムに赴く米兵たちが落とすドルによる好景気に沸いていた。コンディショングリーンは金武や辺野古の米軍将校クラブなどにも呼ばれ、人気を博した。

ベトナム帰りの荒くれ者は「山帰り」と呼ばれていた。演奏に少しでも不満があれば、すぐにビール瓶やテーブルを投げつけてきた。それに呼応するように、かっちゃんのステージも過激化していく。生きた鶏の首をステージ上で食いちぎり、流れる血を飲み干す。ハブやニシキヘビも口に入れてみせた。

ベトナム戦争が泥沼化していくと、沖縄から出撃した米兵たちの帰還率も急速に下がっていった。「自分の靴にビールを入れてかっちゃんに飲んでもらうと、ベトナムから生きて帰れる」。死の恐怖にさいなまれた米兵たちは懇願するように演奏を求め、競って自分の靴をかっちゃんに差し出したという。

「沖縄にすごいバンドがいる」。日本本土でも話題になり1977年に全国デビュー。米国本土でも2度のツアーを行った。コンディショングリーンの成功をきっかけに、コザを拠点に米兵相手に活動していた他のバンドも注目を集める。ジョージ紫が率いる「紫」、喜屋武マリーと幸雄による「マリーwithメドゥーサ」などだ。これらのバンドは「オキナワンロック」と呼ばれ、日本のロック史に刻まれることになる。その先駆けが、かっちゃん率いるコンディショングリーンだったのだ。noricoが生まれる少し前の話である。

病に侵されていくロックスター

noricoが出会った時、かっちゃんはすでに60歳を超えていた。それでも人並み外れた体力で激しいステージを続けていた。海に潜って魚を突くのが大好きだったかっちゃんは、沖縄本島各地のダイビングスポットに精通し、noricoやバンドのメンバーと一緒にしばしばキャンプに出かけた。

ただ、70歳を過ぎる頃から、かっちゃんの体力に陰りが見え始める。持病の糖尿病が悪化し、入退院を繰り返すようになった。最後の7年は、いつ亡くなってもおかしくない、氷の上を歩くような日々だったという。

そこに追い打ちをかけたのが、コロナ禍だ。noricoはかっちゃんと一緒に過ごすため、2022年にコザに移住。かっちゃんを病院から自宅に引き取り、介護を続けた。晩年は車いす生活となり、ほとんど会話もできなくなった。

「体が悪くなっていっても、かっちゃんの性格は変わらない。遊びたい、ご飯食べたい、ステージに立ちたい。後悔のしようがないくらい、お互いに最後までがんばった。かっちゃんは本当に人生をやりきった。素晴らしい」

noricoはかっちゃんの車いすを押して、夜のコザを一緒に散歩した。よく通った食堂や肉屋さんなど、町の人々とも触れ合った。2021年にはコロナ禍の中でオンラインライブを行い、2022年にはピースフルロックフェスティバルへの最後の出演も果たした。その間も、noricoはずっとかっちゃんの写真を撮り続けた。

最期を看取る

2023年4月20日、かっちゃんは眠るようにnoricoの部屋で息を引き取った。生前の意志を尊重して湿っぽい葬式は行わず、バンドメンバーが演奏するなかでお別れ会を開いた。noricoは喪主としてすべてを取り仕切った。いま、noricoの部屋にはかっちゃんの遺影とお骨が置かれている。お線香とご飯を毎日供え、外出時にはお骨の一部を入れたペンダントを身につける。

かっちゃんと出会った頃に、一緒に出かけた思い出の海の写真がある。沖縄本島北部やんばる。ジャングルを抜けた先に広がる真っ青な海。沖縄の赤土とランドクルーザー。そして、海をバックに飛び切りの笑顔を見せるかっちゃん。雨上がりの悪路を走り続けた末にたどり着いた夢のような風景。それは手品のようだったという。

写真集「Condition Rainbow」には、パートナーだったnoricoにしか撮れない、かっちゃんの生き生きとした姿が300点以上収録されている。

「かっちゃんのパフォーマンスは、白いキャンバスに絵を描くようなもの。私はその絵が好きなんです。かっちゃんのおかげですごく面白い人生を歩ませてもらった。多くの人に写真集を見てそれを追体験してもらいたいと思う」

監督・撮影・編集 新田義貴

編集サポート 山崎エマ 鳥屋みずき

プロデューサー 金川雄策

製作 ユーラシアビジョン

映画監督、ジャーナリスト

1969年東京都出身。慶応義塾大学卒。NHK報道局、衛星放送局、沖縄放送局などで、中東やアジア、アフリカの紛争地取材、沖縄の基地問題や太平洋戦争などに焦点を当てた番組制作を行う。2009年独立し、映像制作ユーラシアビジョンを設立。テレビや映画など媒体を超えてドキュメンタリー作品の制作を続けている。劇場公開映画は、沖縄の市場の再生を描いた「歌えマチグヮー」(2012年)、長崎の被爆3世が日本の原子力の現場を旅する「アトムとピース〜瑠偉子・長崎の祈り」(2016年)。

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