【幕末こぼれ話】会津の女銃士・新島八重は、オリンピック銀メダルの人見絹枝がうらやましかった?
7連発のスペンサー銃で幕末の会津戦争に活躍した新島八重(山本八重)は、昭和7年(1932)88歳まで生きた。
亡くなる4年前、84歳の時に、『会津戊辰戦争』の著者・平石弁蔵が八重にインタビューした記録があり、それが同書の増補版に収録されている。
インタビュー中、自分がもっと若ければ運動選手になったかもしれないと話すくだりがあり、大変興味深いのでここに紹介してみよう。
老いてなお戦場に
記事の冒頭にはこう記されている。
「刀自(八重のこと)は本年八十四歳の高齢なるが、元気の旺盛なる、実に壮者を凌ぐの概あり。(中略)著者の刀自を訪うや、欣談快語数時にわたるも毫も倦怠の状なく、疲労の色なし。むしろ至誠刻々にあらわれ、肘を張り肩をいからし、さながら戦場にあるがごとし」
高齢になってもなお、八重の気力、体力はおとろえていなかったのだ。まるで戦場にいるかのようだという、インタビュアー平石の表現はまさに実感だったのだろう。
八重の談話は次のようである。
「わたしの兄覚馬はご承知のとおり砲術を専門に研究していましたので、わたしも兄にひと通り習いました。(中略)八月二十三日の早朝、敵がいよいよ侵入したので、母さく子と姉うら子は、婦人は城中の手足まといでもあり、また空しく糧食をいただくは不忠にもなるから、他に避難しようと申しますので、わたしは反対に決死の覚悟で入城しますと息巻いて――」
母と姉とは違い、八重には兄に習った鉄砲の腕があった。それに最新兵器のスペンサー銃も一挺ある。これを駆使すれば、敵に一矢報いることができると八重は戦意旺盛だったのだ。
今の世なら運動選手
「入城後わたしは昼間は負傷者の看護をしていましたが、夕方になり今夜出撃と聞きましたので、わたしも出ようと脇差にて髪を切り始めましたが、なかなか切れませんので高木盛之輔の姉ときをさんに切ってもらいました」
高木時尾は、こののち元新選組の斎藤一と結婚する女性である。幼なじみの時尾に髪を切ってもらい、決死の出陣に加わった八重だった。
夜襲隊は鶴ヶ城の大手門から出て、城外の敵兵を銃撃。まさか奇襲されると思っていなかった敵は、壊乱状態となった。もちろん八重のスペンサー銃も大いに威力を発揮する。
「わたしも命中のほどはわかりませんが、よほど狙撃をしました。(中略)夜襲に加わったのは、女ではわたし一人であります。元来わたしは子供の時から男子のまねが好きで、十三歳の時に米四斗俵を自由に四回まで肩に上げ下げをしました。また石投げなどは男並みにやっていましたから、今の世なら運動選手などには自ら望んで出たかもしれません」
八重はそういって笑ったと、インタビュー記事には記されている。子供の頃から体力自慢で男まさりの少女だったのだ。
ところで八重が84歳でインタビューを受けた、昭和3年(1928)というのは、女性が運動選手として活躍できるような時代だったのだろうか。
実はまさにこの年は、アムステルダムオリンピックが開催され、人見絹枝が日本女子選手として初出場した記念すべき年だった。しかも人見は、800メートル走でみごと銀メダルを獲得し、日本女性初のメダリストにも輝いたのである。
日本中をわかせたこの活躍を、八重がおとなしく見ていられるはずもなかった。ちなみに人見は、砲丸投げや槍投げでも国内トップレベルの記録を出している。
石投げが得意だった八重としては、人見絹枝の躍動を見て、女性がこれほどスポーツで活躍できる時代が来たのかと、ほほえましいような、うらやましいような、複雑な気持ちで見ていたことだろう。