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ビワハヤヒデ死す。彼が菊花賞を勝った後、一流騎手の語った思わぬひと言とは……

平松さとしライター、フォトグラファー、リポーター、解説者
93年菊花賞でのビワハヤヒデ(左)と岡部騎手。(写真:日刊スポーツ/アフロ)

ビワハヤヒデ死す

 7月21日、北海道日高町の日西牧場でビワハヤヒデが老衰により死んだとのニュースが飛び込んできた。同馬が菊花賞(G1)を勝ったのは1993年。このレース後、手綱を取った岡部幸雄(当時)騎手と話すと、彼は“さすが一流騎手”とも思える驚きの発言をした。

 父・シャルード、母パシフィカスの芦毛の牡馬ビワハヤヒデがデビューしたのは同馬が2歳だった92年の9月。新馬戦を大差勝ちしてベールを脱ぐと3連勝で重賞を制したが、初のG1挑戦となった朝日杯3歳S(現朝日杯フューチュリティS)はエルウェーウィンの2着に惜敗。年が明け、クラシックを目前にした3歳初戦の重賞でも2着に敗れると、次走から当時トップジョッキーの1人して活躍していた岡部幸雄に鞍上が替わった。

 初コンビとなった若葉Sを快勝し、クラシック本番を迎えたが、皐月賞(G1)、日本ダービー(G1)はそれぞれナリタタイシン、ウイニングチケットの2着に惜敗。

 そんなビワハヤヒデが本格化したのは秋になってからだった。神戸新聞杯(G2)で後に秋の天皇賞を制するネーハイシーザーに1馬身半の差をつけて優勝すると、続く菊花賞(G1)では2着のステージチャンプに5馬身もの差をつけて圧勝。自身初のG1制覇を飾った。

 翌年には天皇賞(春)(G1)と宝塚記念(G1)も優勝。この年の3冠馬 となる1歳年下の半弟ナリタブライアンとの直接対決が期待されたが、天皇賞(秋)(G1)で5着に敗れると屈腱炎が判明し、引退となった。

菊花賞直後に主戦騎手が語ったひと言とは……

 ウイニングチケットやナリタタイシンとの3強対決や、ナリタブライアンとの最強兄弟といった話題ばかりでなく、芦毛の大きな頭が愛くるしく見え、ファンも多い馬だったが、私がよく覚えているのは冒頭に紹介した岡部との会話だ。菊花賞を勝った翌週、美浦トレセンでこの主戦騎手と顔を合わせた私は「前半、少し行きたがっていましたね?」と聞いた。掛かりながらも圧勝した事から、折り合うようになればどれだけ強いか?という思いがあったし、逆に考えると折り合いだけがまだ弱点なのでは?という気持ちもあってそう聞いたのだ。しかし、それに対する名手の答えは意外なモノだった。

 「折り合いを欠くというのは馬に走る気があるという事だからね。走る気のない馬よりずっと良いですよ。それをうまくコントロールするのがジョッキーの仕事であり、酷く掛かって負けてしまえば、それは馬の責任ではなくて抑えられなかったジョッキーの責任ですからね」

 折り合いを欠けば、馬自身や調教を課す厩舎の責任にする騎手も多い中、さすがトップジョッキーは考え方が違うと思った。そんな事を間接的に教えてくれたのがビワハヤヒデだった。今はただ、安らかに眠っていただきたい。

現役時代の岡部騎手
現役時代の岡部騎手

(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)

ライター、フォトグラファー、リポーター、解説者

競馬専門紙を経て現在はフリー。国内の競馬場やトレセンは勿論、海外の取材も精力的に行ない、98年に日本馬として初めて海外GⅠを制したシーキングザパールを始め、ほとんどの日本馬の海外GⅠ勝利に立ち会う。 武豊、C・ルメール、藤沢和雄ら多くの関係者とも懇意にしており、テレビでのリポートや解説の他、雑誌や新聞はNumber、共同通信、日本経済新聞、月刊優駿、スポーツニッポン、東京スポーツ、週刊競馬ブック等多くに寄稿。 テレビは「平松さとしの海外挑戦こぼれ話」他、著書も「栄光のジョッキー列伝」「凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち」「世界を制した日本の名馬たち」他多数。

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