武豊が有馬記念で騎乗するオジュウチョウサンをとりまく男たちの想いとは……
オジュウチョウサンとの出会い
男が持ってきた1葉の白黒写真。
そこには1頭の馬と2人の男が写っている。1人は馬上で右手に持ったヘルメットを掲げ、もう1人はその馬を曳いている。そして、馬の首には“第21回グランプリ 有馬記念競走”と刺繍された優勝レイがかけられている。
長沼昭利が生まれたのは1963年9月19日。現在55歳だ。父・昭二、母・ほのるの下、年子の妹と育てられた。
「父の仕事の関係で東京競馬場に住んでいました」
そんな環境で育ったため「競馬場以外で働くことは考えたこともなかった」と言う。
高校に通った後、茨城県の牧場で働き、馬乗りを教わった。その後、開場して間もない美浦トレーニングセンターで、厩務員として働くこととなった。
坂本栄三郎厩舎を経て、清水美波厩舎、そして稗田研二厩舎の所属となった。
「清水厩舎の頃はミスエメラルドという馬を担当させてもらいました」
同馬は天馬と呼ばれたトウショウボーイの子供だった。
その後、稗田の急逝により、和田正一郎厩舎に移った。
「最初はコンフェルヴォーレという馬を担当させていただきました」
この馬が厩舎にとって開業後、初勝利を挙げた。
また、2014年に暮れには転厩してきた1頭のステイゴールド産駒の面倒をみることになった。
「血統的にも難しいタイプで、噛みついて来るような馬でした」
それがオジュウチョウサンとの出会いだった。
オジュウチョウサンはその後、障害の未勝利戦で2、3着と好走。更に初勝利を挙げるとオープンも連勝した。
1人の騎手との出会いが障害馬として覚醒させた
「当時乗っていた山本康志君もよくやってくれました。そして、その後に乗り替わった深一が更に良さを引き出してくれました」
深一と呼ばれたのは騎手の石神深一だ。
1982年6月3日生まれの現在36歳。父・富士雄がJRAの元騎手だったため、美浦トレセンで育った。
小学5年で乗馬を始め、中学卒業と同時に競馬学校に入学。2001年に美浦・成宮明光厩舎からデビューを果たすと12勝。翌年以降も毎年2桁勝利を挙げた。
順風満帆かと思えた05年に事件が起きた。
自動車運転中に自損事故を起こし、騎乗停止処分を科せられたのだ。
「自分が若くて馬鹿でした。これを機に乗り数が減り、当然、勝てなくなったけど、全て自分の責任でした」
06年には追い打ちをかけるように落馬事故で大怪我を負った。
「それでも騎手を続けたい気持ちは失せなかったので、障害レースに活路を求めました」
こうして07年からは障害レースにも乗るようになると、翌年、障害初勝利。13年には自身初となる重賞制覇を障害で飾った。
そして15年。オジュウチョウサンとの出会いが待っていた。
「初めの頃は乗り手を落とそうとしたり、随所に若い面がありました。でも競馬では全く息が乱れないから、指示に従うようになれば相当、走れると思い、毎朝、調教で教え込みました」
すると徐々に指示に従うようになっていった。そして、16年4月に中山グランドジャンプを優勝。人馬共に初のG1制覇を飾ると、それを機に無敵の快進撃が始まった。
中山グランドジャンプ(G1)3連覇、中山大障害(G1)連覇を含む9連勝。オジュウチョウサンは16、17年と2年連続でJRA最優秀障害馬に選出され、石神も2年連続でJRA賞最多勝利障害騎手賞の座を射止めた。
再び長沼の弁。
「オジュウチョウサンがこうして華を咲かせる事が出来たのは深一のお陰です。彼と出会っていなければここまでの活躍はなかったと思います」
オジュウチョウサンの転機
そう言われた石神の耳に衝撃のニュースが飛び込んだ。オジュウチョウサンに親しみを込め“オジュウ”と呼ぶ石神は当時の気持ちを次のように述懐した。
「オジュウが平地に再転向して有馬記念を目指すと聞き、正直、ショックでした。しかも平地では騎手も乗り替わりになると聞かされ『自分はもう乗れないのか……』と寂しくなりました」
長沼は言う。
「深一はかわいそうだと思ったけど、それがオーナーの夢なら、自分の仕事はそこへ向けて一所懸命に仕事をして万全にしてあげるだけだと考えました」
鞍上には天才騎手・武豊を迎え、7月7日、平地初戦となる500万下条件の開成山特別を走った。石神も競馬場へ駆けつけ、スーツ姿で見守る中、オジュウチョウサンはこのレースを快勝。武豊に「飛ばなくても強かった」と言わせた。
さらに11月3日には東京競馬場で1000万下条件の南武特別も勝利。障害戦からの連勝を11に伸ばすだけでなく、有馬記念のファン投票の獲得票数も伸ばせる快勝劇。実際、12月6日に発表されたファン投票の最終結果で100,382票を獲得。10万票を超えたのはレイデオロ、アーモンドアイとこのオジュウチョウサンだけという人気ぶりで見事にグランプリの出走権を手に入れた。
有馬記念へ向けたそれぞれの想い
「勝っても喜びよりホッとする感じ」
そう口を開いた長沼は、有馬記念への想いを次のように続けた。
「自分の父親はトウショウボーイの厩務員でした。有馬記念では武邦彦さんに乗っていただき、勝たせてもらいました」
冒頭で紹介した白黒写真は正にその時の写真だ。写っているのは天馬トウショウボーイ、乗っているのが故・武邦彦で曳いている男が長沼の父・昭二なのだ。
武邦彦は言わずとしれた武豊の父である。長沼親子と武親子は、有馬記念を軸とした不思議な縁で結ばれていたのだ。急に気温が下がればたとえそれが夜中でも小窓を閉めるだけのためにオジュウチョウサンの馬房へ出向くという長沼。その姿勢は父がトウショウボーイに対してとってきた態度と同じなのだろう。
また、12日には1週前追い切りに跨り、その2日後には障害コースを飛ばせた石神は語る。
「オジュウは徐々にわがままになってくるのですが障害練習をすると乗り手の指示に従うようになります」
障害を飛ばすことで全身を使って走るので腰やトモも鍛えられるのだとも言う。そして、状態については「これが障害レースなら千切って勝てるのでは?と思えるほど良い」と言い、更に現在の気持ちを次のように続けた。
「平地で勝つほど、僕のところに戻ってくる可能性は低くなります。でも、オジュウが負けるところは見たくありません。僕は少しでも力になれるよう全力で応援するだけです!!」
最後に武豊の言葉を記そう。「平地で1度はらく印を押された馬が障害で成功して、最高の舞台である有馬記念に挑戦出来るまでになったのは、夢のある話ですよね」と語る日本一のジョッキーはその可能性について、語る。
「石神君が障害で指示に従うように教育しただけあって、乗り難しいところは全くありません。ファンの多い馬であることも分かっているので、少しでも良い結果が残せるように、頑張ります!!」
長沼が、石神が、そして10万を超す票を投じたファンが見守るひのき舞台で、果たしてオジュウチョウサンはどこまで飛んでいくのだろう。注目したい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)