Yahoo!ニュース

「私は最後の血の一滴まで戦う」ウクライナの音楽プロデューサーが対ロシアの戦場に立つまで

日向史有ドキュメンタリーディレクター

2022年2月24日、ロシア軍による唐突なウクライナ侵攻は、世界を驚かせた。だが、これは2014年から続く東部での親ロシア派勢力との紛争が行き着いた先である。「欧米は沈黙してきた」。音楽プロデューサーのかたわら、東部紛争ではウクライナ軍や民兵たちの後方支援ボランティアをしていたボリス・ペレフは、この間の経緯をこう語る。ウクライナとロシア。双方の血を引くボリスが見るこの戦いの本質とは。
(敬称略)

侵攻開始のニュースを聞き、私はすぐにFacebookのメッセンジャーでウクライナの友人たちの安否を確認した。そのうちのひとりが、ウクライナの公共放送局で音楽プロデューサーをしているボリスだ。1分もたたないうちに、彼から返信がきた。

「ハロー、マイフレンド、ロシアと戦争だ。ロシアはミサイルや爆弾を使っている。僕たちはロシアを止めようとしている。だけども非常に難しい。いくつかの街は破壊された。完全にだ。僕はいま軍隊にいる。最後の銃弾まで、最後の血の一滴まで、僕たちは戦う。選択肢はない。ウクライナは僕たちの土地だ、僕たちは死ぬまでウクライナを守る」

私がボリスと知り合ったのは2016年2月。テレビ番組の取材でウクライナを訪れたときのことだった。

2014年2月末にウクライナ東部で紛争が始まると、翌3月には60歳までの市民を動員できる大統領令が発令され、5月には徴兵制度が復活した。ウクライナのニュースサイトSegodnya.uaによると、2014年の動員数は約10万5千人。徴兵された若者(当時は20〜27歳まで)は、2015年では3万人となった。緊張感の高まりとともに、市民の間でも軍事訓練に参加する者や、政府軍と共に戦う志願兵、市民により構成される民兵組織も現れるようになった。一方で、戦地に送られる可能性もある動員や新兵訓練のための徴兵から逃れる者も数多くおり、私は番組で紛争下に置かれた人々の葛藤をレポートした。

ボリスもその取材に応じてくれたひとりだ。音楽プロデューサーをしながら、東部で戦う軍隊や民兵を支援するボランティア活動に従事していた。ボリスの父親はウクライナ人で、母親はロシア人。幼少期はロシアのカムチャツカ半島やモスクワで過ごし、大学進学をきっかけにウクライナに移住し、現在にいたる。ボリスの姉はロシア人男性と結婚し、ポーランド北部にあるロシアの飛地領カリーニングラードで暮らしている。

ウクライナは1991年にソビエト連邦から独立するが、政権はつねに親EU派と親ロシア派のあいだで揺れ続けてきた。ボリスがインタビューで語っている「マイダン革命(マイダンはウクライナ語で「広場」の意)」とは、親ロ派政権下で起きた2014年の市民デモのことだ。デモは治安部隊と大規模な衝突を引き起こし、100人以上の死者を出した。それでも収まらない抗議運動を前に、親ロ派のヤヌコビッチ大統領はロシアへ逃亡し、親EU派の暫定政権が樹立された。これを受け、ロシアは南部のクリミア半島を併合。さらに東部にも介入し、ウクライナ政府軍と親ロ派勢力との間で紛争が始まった。

ミュージシャンになることを夢見て作曲を続けてきたボリスが、ウクライナ軍と共に戦う志願兵や民兵組織を支援するボランティアを始めたのは、「放っておけなかった」からだった。彼は、キーウで市民や企業から支援物資を募り、それを東部の前線で戦う兵士に届けていた。物資には、防弾チョッキ、ヘルメット、靴、防寒着にはじまり、食糧、飲料、医薬品、電子機器など、ありとあらゆるものが含まれていた。

紛争が始まる前のボリスにとって、「軍隊」や「前線」という言葉自体が別世界のもので、兵士を身近に感じたことなどなかった。「『戦争』から連想されるのは、映画『ランボー』くらいで、戦闘という行為は全てが愚かで、戦争は常に悪だ」と思ってきた。

「軍隊というのは、インテリや知識人とは程遠く、希望を失った人が行くところ」とまで思っていた彼がボランティアを始めたのは、東部で戦闘に参加している兵士が「自分と変わらない市民」だと気付いたからだ。弱体化していた軍隊と共に東部戦線で戦っていたのは、かつて、ボリスが街中ですれ違っていたビジネスマンや学生、労働者だった。

ボリスの生活が変ったのは、それからだ。かつては街中を迷彩服で歩く人々に違和感を抱いていたが、いまや自分が防弾チョッキと迷彩服を着て、ヘルメットを被っている。作曲に打ち込んだり、幼い子供2人と過ごしたりする時間よりも、キーウから700キロ離れた東部の前線に物資を届けることを優先させている。

ロシアで暮らすボリスの姉は、そんな彼を「ファシストだ」と罵ったそうだ。姉に対してボリスは「ウクライナの状況を分かっていないし、知ろうともしない」と嘆く。姉はロシア人の夫と暮らし、ロシアメディアから情報を得て生活している。プーチン大統領は、2022年の軍事侵攻の大義をウクライナの「非ナチ化」とした。ゼレンスキー政権については、「ナチズム信奉者」がロシア国民を弾圧していると非難している。姉にはこうしたロシアの「大義」を疑うことすら許されないのかもしれない。

東部紛争開始から2年間、ボリスは姉と連絡を取り合うことを止めた。ボリスはボランティア活動を続ける道を選んだのだ。親ロ派から銃撃されたこともあるというが、活動から離れる気はみじんもない。

2016年の約1ヶ月間のキーウ取材では、私は私立高校も訪れた。そこでは「祖国防衛」の授業時間が4倍に増加。退役軍人の指導のもと、生徒たちは本物の銃器を使って分解と組み立ての実習をしていた。廊下に掲げられていたのは、東部で戦う兵士たちに宛てたメッセージボードだ。市民レベルでは、民間組織が軍事訓練会を開催。バスの停留所や大通りには兵士募集の看板広告が出され、「革命」が起きたキーウ中心部のマイダン(広場)には、東部の戦況を伝えるパネルが設置されていた。

ところが休日になると、広場へと続く目抜き通りには、家族連れや友人同士でショッピングや食事を楽しむ人々が溢れる。街ゆく人の表情からは「戦時下」の緊張感はうかがえない。取材を受けてくれた人々のだれもが、キーウが戦場になるとは思っていなかった。

ボリスもそうだった。ただ、彼は東部紛争にどう向き合うべきかを問い続け、ボランティア活動の継続を自身に厳しく課していた。彼は、どこか周囲から浮いているような、ヒリヒリとした緊張感をまとっていたように思う。

取材後もボリスとは、誕生日にFacebookでメッセージを送り合う程度ではあったが、交流が続いた。彼のページには、迷彩服姿の写真が多く投稿されるようになった。髪は、いつの間にかモヒカンに似たスタイルになっていた。コサックに起源がある髪型だという。コサックはウクライナ人のルーツであり、誇りなのだと、ボリスは言っていた。ウクライナ国歌にも「兄弟たちよ、我らがコサックの氏族であることを示そう」という一節がある。そんな髪型にすることは、愛国者の証でもあるようだった。

しばらくすると、銃を携えるボリスの姿がアップされた。彼がどこに向かうのか、心配になった。

2022年2月25日、ロシア軍のウクライナ侵攻の翌日、ボリスはFacebookに、こう投稿した。

「ヨーロッパは沈黙してきた、アメリカも沈黙してきた。このままだと、次の標的はお前たちだ…」

ボリスは怒っていた。この8年間、ずっと続いてきた東部紛争に目を向けなかった世界に対する怒りなのだろう。ロシア軍のウクライナ侵攻は、突然起きたわけではないのだと。

クレジット

撮影:角山 正樹
コーディネーター:アンドレイ・アーシン(Андрій Асін)
リサーチ・通訳:ヴァレンティナ・モロゾヴァ(Valentina Morozova)
翻訳監修:ラインゲート

ストーリープロデューサー:石川 朋子
プロデューサー:金川 雄策
演出:日向 史有

ドキュメンタリーディレクター

2006年、ドキュメンタリージャパンに入社。東部紛争下のウクライナで、「国のために戦うべきか」徴兵制度に葛藤する若者たちを追った『銃は取るべきか(NHK BS1)』や在日シリア人“難民”の家族を1年間記録した『となりのシリア人(日本テレビ)』を制作。2017年、18歳の在日クルド人青年のひと夏を描いた「TOKYO KURDS/東京クルド」で、TokyoDocsショートドキュメンタリー・ショーケース優秀賞受賞。2018年、北米最大のドキュメンタリーフェスティバル HOT DOCS正式招待作品に選出。

日向史有の最近の記事