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8月22日は、<怨歌>の歌い手・藤圭子さんの命日

碓井広義メディア文化評論家
筆者撮影

8月22日は、歌手・藤圭子さんの命日でした。

亡くなったのは、2013年8月22日。以下は、訃報を伝える当時の新聞記事です。

藤圭子さん転落死 自殺か 都内のマンション

二十二日午前七時ごろ、東京都新宿区西新宿六のマンション敷地内で、女性が血を流してあおむけに倒れているのを通行人が見つけ一一〇番した。

警視庁によると、女性は歌手の藤圭子さん(62)。病院に搬送されたが、頭を強く打っており、間もなく死亡した。

新宿署によると、藤さんはTシャツに短パン姿。マンション十三階にある知人男性の部屋のベランダから、転落したとみられる。

スリッパの片方がベランダ、もう一方が地上にあったという。争った形跡はなく、警視庁は飛び降り自殺を図ったとみて調べている。

藤さんは一九六九年に「新宿の女」で歌手デビュー。「圭子の夢は夜ひらく」の大ヒットで第一回日本歌謡大賞を受賞した。

その後も「命預けます」「京都から博多まで」などのヒットを連発し、一九六〇年代終わりから七〇年代にかけ一世(いっせい)を風靡(ふうび)した。

R&Bシンガーの宇多田ヒカルさんの母親として若い世代にも知られ、二〇〇〇年代に発売した「藤圭子コレクション」が完売するなど再び人気を集めた。最近は歌手活動を休業していた。(東京新聞夕刊 2013.08.22)

・・・この記事を読んだ11年前の今日、「ああ、そういう亡くなり方をしたのか」と思ったことを覚えています。

そして、不謹慎ながら、どこか意外という感じがしないのも事実でした。

「新宿の女」の藤圭子が、新宿で亡くなったんだ、まるで出発点に戻ったようだなあ、と思ったりもしました。

1969年9月のデビュー曲「新宿の女」。あれはインパクトがある曲でした。「凄み」みたいなものが半端じゃなかったのです。

ですから、ラジオで最初に聴いた時、まさか18歳の女の子が歌っているとは思いませんでした。

正真正銘の<怨歌>

五木寛之さんが、当時の彼女について書いた文章があります。『風に吹かれて』に続く、第2エッセイ集『ゴキブリの歌』。ここ収められている「艶歌と援歌と怨歌」です。

毎日新聞に掲載されたのは確か1970年で、翌年に単行本化されました。

以下、抜粋してみます・・・・

藤圭子という新しい歌い手の最初のLPレコードを買ってきて、夜中に聴いた。

彼女はこのレコード1枚を残しただけで、たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ、という気がした。

歌い手には一生に何度か、ごく一時期だけ歌の背後から血がしたたり落ちるような迫力が感じられることがあるものだ。

それは歌の巧拙だけの問題ではなく、ひとつの時代との交差のしかたであったり、その歌い手個人の状況にかかわりあうものである。

彼女のこのLPは、おそらくこの歌い手の生涯で最高の短いきらめきではないか、という気がした。

――中略――

ここにあるのは、<艶歌>でも<援歌>でもない。これは正真正銘の<怨歌>である。(五木寛之『ゴキブリの歌』より)

・・・「最初のLPレコード」と書かれているのは、デビュー曲をタイトルにしたアルバム『新宿の女/“演歌の星”藤圭子のすべて』です。

「たとえ今後どんなふうに生きて行こうと、もうそれで自分の人生を十分に生きたのだ」という文章がすごい。

また、「この歌い手の生涯で最高の短いきらめき」という言い方にも驚く。

「デビュー直後の18歳の歌手」のことを書いたとは思えません。

また、それから先、44年の軌跡を予見しているかのようだ、というのも思い込みが過ぎるかもしれません。

しかし、この五木さんの文章以上に、「歌手・藤圭子」の本質を突いたものを、他に知りません。

藤圭子さん。2013年8月22日没。享年62。

合掌。

メディア文化評論家

1955年長野県生まれ。慶應義塾大学法学部政治学科卒業。千葉商科大学大学院政策研究科博士課程修了。博士(政策研究)。1981年テレビマンユニオンに参加。以後20年間、ドキュメンタリーやドラマの制作を行う。代表作に「人間ドキュメント 夏目雅子物語」など。慶大助教授などを経て、2020年まで上智大学文学部新聞学科教授(メディア文化論)。著書『脚本力』(幻冬舎)、『少しぐらいの嘘は大目に―向田邦子の言葉』(新潮社)ほか。毎日新聞、日刊ゲンダイ等で放送時評やコラム、週刊新潮で書評の連載中。文化庁「芸術祭賞」審査委員(22年度)、「芸術選奨」選考審査員(18年度~20年度)。

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