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東京五輪の暴走に、何もしなかったメディアのことを忘れない

森田浩之ジャーナリスト
IOCや組織委員会などの5者協議で東京五輪の有観客開催が合意された(写真:代表撮影/ロイター/アフロ)

「ぼくたちは何だかすべて忘れてしまうね」

これは漫画家・岡崎京子が2004年に出版した物語集のタイトルだ。交通事故による大けがでキャリアを事実上絶たれた彼女のこの言葉が、ここ最近、頭の中をぐるぐる回っている。

もちろん私は、東京五輪の問題とのからみで、この話をしている。五輪開催の是非をめぐり、私たちは多くのことを次々と忘れてきた──あるいは、忘れるように仕向けられてきた。

その陰にあったのはメディアの怠慢だ。

東京五輪の開幕予定日まで1カ月。五輪をめぐる問題は、もう数えきれないほどにある。

その大きなもののひとつは、開催の是非をめぐる議論について、メディアが本来の役割を果たさなかったことだ。この先、東京五輪の行く末がどうなろうと、私たちはメディアについてその点をしっかり忘れずにいるべきだ。

なぜか改変された世論調査の設問

東京五輪をめぐる問題は、開幕予定日が迫るにつれて、議論のポイントがすり変わっていった。ほんの少し前のメディアの世論調査では、回答者の7〜8割が「中止」か「再延期」を選んでいた。ところが、ある時期をさかいに一部の世論調査の選択肢が変わった。

たとえば2月初めにNHKが行った世論調査で、「東京五輪・パラをどうすべきか」という設問への回答は以下のとおりだった。

「これまでと同様に行う」3%

「観客の数を制限して行う」29%

「無観客で行う」23%

「中止する」38%

「開催する」が3択合わせて55%で、「中止」を大きく超えた。2月当時にしては、他の大手メディアの世論調査と比べて「開催する」の比率が突出していた。

要因はいくつかあるが、おそらく最も大きいのは「再延期」という選択肢が削られたことだ。

その1カ月前にNHKが行った世論調査の選択肢と結果は、以下のとおりだ。

「開催すべき」16%

「中止すべき」38%

「さらに延期すべき」39%

違いは明白だろう。1月の調査では「中止」と「再延期」が合わせて7割を超えていた。ところが2月には、設問が開催の形態を問う方向に変えられており、「再延期」という選択肢が削られている。質問の仕方によって、1月には16%にすぎなかった「開催」派が、2月には55%に増えている。ここにはどういう意図があったのか。

さすがにNHKは、露骨に世論誘導とわかるようなことはしない、できないと信じたい。世論調査の設問を変えたのも、それなりに理論的な裏づけがあると思いたい。それにしても大幅な改変だけに、さまざまな臆測を呼んだ。

私はロンドンのメディア・コミュニケーション学の大学院で、「世論」をテーマにした基礎コースの授業の回に、教授が最初に口にした言葉を今も忘れない。

「嘘には3種類あります──嘘、真っ赤な嘘、そして世論調査」

NHKの世論調査の改変は、この言葉に当てはまるようなものなのか。

「ゴールポストを動かす」ということ

いずれにしても、一時は「開催か中止か」だった論点は、やがて「観客を入れるか入れないか」に移ってしまった。

IOCや組織委員会による5者協議は21日に有観客の方針で合意し、「収容人員の50%までで、上限1万人」を原則とするとした。23日午前の時点では、開会式だけはこの上限1万人に加えて、関係者やスポンサーなどを約1万人入れるかどうかという話になっている。

かいつまんで言えば、東京五輪をめぐる議論は「開催か中止か」から、気がつけば「有観客か無観客か」になり、さらにいつのまにか「1万人か2万人か」になっていたのだ。

こういう現象を示す便利なフレーズが、英語にはある。「moving goalposts(ゴールポストを動かす)」というものだ。交渉ごとなどが進んでいるさなかに、そのゴールを自分たちに有利に持っていくさまを、サッカーなどのゴールをずるずると動かす様子に例えた表現だ。

そんなことをしているうちに、「侍ジャパン」と呼ばれる野球の日本代表選手が発表され、サッカー男子代表のメンバーが報じられる。大会開催を前提とし、かつ耳目を集めるニュースがメディアで次々と伝えられることで、「もう五輪はやるのだろうな」という空気がつくられる。

私たちはこうして、すべて忘れていく。

なぜウガンダ選手団の詳細をCNNで知るのか

それにしても東京五輪関連の問題に対するメディアの弱腰は、ここへきていっそう目に余る。

たとえば19日に来日したウガンダ代表選手団の一件。9人のうち1人が、成田空港でのPCR検査で陽性と判明した。残る8人は陰性だったため入国が認められ、合宿先の大阪府泉佐野市に貸し切りバスで移動した。

8人は濃厚接触者かどうかの判断を経ないまま入国を許可されたのだ。成田ですぐに濃厚接触者として扱われなかったことに疑問の声が噴出したが(泉佐野市の保健所がようやく22日に濃厚接触者と特定した)、批判的に報じた日本メディアは非常に限られた。

その一方で、外国メディアはいち早くこの件を重視し、詳細に伝えていた。米CNNは、陽性となったのはコーチであること、ウガンダの五輪代表は全部で56人であること、ウガンダはいま第二波のただ中であることなどを報じ、日本側の対応の甘さを突いていた。

ここで大きな疑問が頭をよぎる。なぜ私たちは陽性者を出したウガンダ選手団に関するごく基本的な事実を、日本のメディアではなく、CNNに知らされなくてはいけないのか。

川淵発言に記者は何も言わなかった?

メディアの弱腰を示す最近のもうひとつの例は、五輪選手村の報道陣向け内覧会のニュースだ。内覧会は20日に行われ、村長を務める川淵三郎氏があいさつした。川淵氏はここで驚くべきことを言う。

彼は「この数カ月間、日本で大会開催のいかんについてマスコミを通じて相当な議論があった」と切り出したうえで、「国民の大半は開催に賛成していなかったが、ここに来て『オリンピックはしょうがないかな』という形で認めてもらっている」と述べた。

さらに「国内の需要だけで五輪を開催するかどうかという議論ばかりがなされている。五輪・パラリンピックは国際社会に約束したイベントであるという立場での議論がほとんど行われていない」と不満も示した。

そして川淵氏は五輪に出場する選手への声援を求める形で、こう語った。

「(報道陣には)不満もあるでしょうが、ここまで来たのだから日本の国力、信頼感、日本のプライドを世界に発信していけるように支援をお願いしたい。マスコミもそこに心を砕いてもらいたい」

問題だらけの発言だ。まず、開催の是非をめぐって議論があることは認めながら、「ここに来て」「ここまで来たのだから」と、既成事実化を図っている点。もうひとつは「日本の国力」を発信できるようメディアに協力を求めることで、五輪を国威発揚の場と位置づけることを口にした点だ。「五輪は選手間の競争であり、国家間の競争ではない」と定めた五輪憲章に反している。

その場にいた報道陣は「国力を発信できるよう協力を」と、さながら戦時中のプロパガンダ協力のような要請をされたわけだ。ところが、この発言にメディアが反論・抗議をしたという声は聞こえてこない。現場で取材している記者の側から、「それはおかしいのでは?」と一言あってもよさそうに思えるのだが。

傍観者的な古臭い言い回しがネック

22日夜には、会場でアルコールを販売する可能性が検討されていると伝えられた。五輪スポンサーにアサヒビールが名を連ねているからだとも言われた。

結局、この案は取り下げられたが、それはメディアが何かしたからではない。おそらくネット上に批判が噴出したため、断念せざるをえなくなったのだろう。

大手メディアは、こうした政府・組織委員会側のやりたい放題に決して正面からNOを突きつけない。起こったことを淡々と伝えるだけだ。批判的な視点が弱すぎる。

大手メディアのなかでも、書きたいことをストレートに書いている印象のある東京新聞でさえ、〈国民の命を危険にさらしてまでなぜ…五輪「観客1万人開催」〉と題する記事を、こう締めくくっている。

〈五輪開催まで約1カ月。首相が数々の疑問に答えられず、安全・安心に開催できる根拠を示せなければ、開催という判断自体の是非が問われてくる〉

記事には政治部長の署名があるが、「問われてくる」などという新聞特有の古臭い日本語で、傍観者的な態度をあらわにしている場合ではない。これまで日本の大手メディアが積極的に紹介してきた欧米の有力紙の東京五輪批判コラムには、こんな曖昧な表現はない。だから、そこまでは書けない日本のメディアが免罪符的に紹介してきたのだが、開幕予定日まで1カ月となってもこれか……と失望する。

東京五輪は「スキャンダルの百貨店」

今まで多くの人が東京五輪の開催に懸念を抱いてきた理由は、コロナ禍だけではないはずだ。私たちは忘れがちだが、新型コロナが蔓延するはるか前から東京五輪は問題続きだった。

大会招致を勝ち取った理由からして問題だった。安倍晋三・前首相が福島第一原子力発電所の放射能汚染に触れて「アンダー・コントロール」と言い放った。

大会招致には成功したが、その後スキャンダルが途切れることなく続いた。新国立競技場の国際コンペで世界的建築家のザハ・ハディドの設計案を採用したものの、総工費が膨らみすぎるという理由で白紙撤回された。公式エンブレムには盗作疑惑が起こり、現在使われている新しいデザインに変更された。

招致運動をめぐってJOC(日本オリンピック委員会)の竹田恒和会長(当時)が不透明な送金を行っていたとして、フランス当局の捜査を受けた。記憶に新しいところでは、組織委員会の会長だった森喜朗氏が「女性がたくさん入っている理事会は時間がかかる」と発言し、女性蔑視だという批判を受けて辞任した。

東京五輪は「スキャンダルの百貨店」だった。そのスキャンダルの最新にして最大のものが、このパンデミックの中で大会を強行しようとしている決定だ。

ぼくたちが忘れずにいるべきこと

開幕予定日まで、あと1カ月。これはあくまで仮定の話だが……と強く念押ししたうえで書く。

もしも東京五輪が開催され、懸念されたほどの感染拡大もなかったとする。「なんだかんだ言っても、やっぱりオリンピック、やってよかったですね」などという空気の中で、大会を終えられたとする。

だとしても、中止や再延期に向けて積極的に動かなかったメディアの選択が正しかったということにはならない。何しろメディアは、世論の8割の意思を無視した。国民の圧倒的多数の声を、民主的な議論のプロセスにのせなかった。その時点で明らかに罪を犯している。

東京五輪開催の是非は「国論を二分」するどころの話ではない。世論調査では8割が中止・再延期を求めていたのだ。二分ではなく、8対2だ。その8割の声を重視しなかったメディアは、課せられた責任に応えていない。

東京五輪がそこそこうまく運ぼうと、壊滅的な打撃をこうむろうと、いずれにしても私たちが忘れてはいけないことがある。この五輪の開催問題について、メディアは市民の声を拾い上げる努力を怠っている。

それがなぜかはわからない。よく言われるように、全国紙がこぞって東京五輪のスポンサーだからなのか。それとも、スポンサーになっているかどうかにかかわらず、それが日本のメディアというものだからなのか。

いや、開幕1カ月前となっては、そんなことはどうでもいいのかもしれない。私たちは記憶にとどめておけばいい──メディアは東京五輪の暴走を止めるために、ほとんど何も仕事をしなかった。メディアとしての機能を果たさなかった。

ぼくたちは何だかすべて忘れてしまう。でも、このことだけはもう忘れない。

ジャーナリスト

メディアやスポーツ、さらにはこの両者の関係を中心テーマとして執筆している。NHK記者、『Newsweek日本版』副編集長を経てフリーランスに。早稲田大学政治経済学部卒、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)メディア学修士。著書に『メディアスポーツ解体』『スポーツニュースは恐い』、訳書にサイモン・クーパーほか『「ジャパン」はなぜ負けるのか──経済学が解明するサッカーの不条理』、コリン・ジョイス『新「ニッポン社会」入門』などがある。

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