片目を失いながらも大舞台に出場したジョッキーを、常に見守り続けた女性のお話
いつもと変わらぬ日に起きたアクシデント
いつもと変わらぬ朝だった。そしていつもと同じようにレースに臨んだ。
当時、騎手デビュー5年目を迎えた別府真衣。2009年5月2日の事だった。
「直線に入る手前で、前の方にいた馬がガクってなりました。その後、横に飛ぶような形でジョッキーが落とされたのが見えました」
その瞬間「うわっ!!」と思ったが、それに続いて聞こえてきた声に更なる衝撃が走った。
「落馬自体はそれほどひどい感じはありませんでした。ただ、後続馬が接触するのが見えたと同時に『踏んだ!!』という声が聞こえました」
最後の直線は「プロの騎手としてしっかり追わないといけないのは分かっていましたが、動揺しなかったといえばウソになります」
ゴールに入線した直後、ジョッキー同士で「どうなった?」と声を掛け合った。
「救急車が上がって来て、検量室前で止まったのですぐに駆けつけました」
そこで別府が対面したのは、先輩の思いもしない姿だった。
「本人は『大丈夫だから、次も乗る』と言っていたのですが、見ている側からするととても大丈夫ではない事がすぐに分かりました。顔が潰れて、血だらけになっていました」
渡されたゴーグルを見ると、剥がれた皮膚が張り付いていた。
「それを洗い流したのですが、血が大量についていて、手が震える思いでした」
落馬をしたのは宮川実。1982年2月生まれだから、当時27歳。87年12月生まれの別府はまだ21歳だった。宮川は兄の浩一も騎手(現調教師)。別府はこの宮川兄弟に、デビュー当初から「可愛がってもらっていた」と言う。
「キャンプやサーフィンへ行ったり、食事に連れて行ってもらったり、家族ぐるみで面倒を見てもらっていました」
4月24日には宮川実が地方競馬通算700勝を達成。皆で喜びを分かち合ってから僅か1週間ほどでの出来事に、嘘であってほしいと願った。
「病院へ運ばれた後、どうなったのか、当然、気になりました。最初の頃から『失明かも……』という話が出ていたのですが、とにかく情報が錯そうしていたので、何が正しいか分からず、もどかしい気分でした」
お見舞いに行こうと考えていたが、浩一から話を聞くと、思いとどまった。
「お兄さんの話では『本人が来てほしくない』と……。後々聞くと、顔の腫れがひどかった事もあったそうですが、現状を受け入れるのにも苦悩していたようです」
約1カ月後、浩一から新たな情報が入った。
「失明は確実だと聞かされました」
ますますお見舞いに行きたい気持ちが強くなったが、同時に「顔を合わせたところで何て声をかければ良いのか……」と自問した。
「失明という診断をすぐには納得出来ず、何カ所か病院を回ったそうです。結局、どこへ行っても同じ診断だったようで、本人の気持ちを考えると、こちらとしても胸が締め付けられる思いでした」
日常生活に支障を来たすのは勿論“騎手”という職業を考えると、その思いは更に強くなった。
「レースでは一瞬の判断が勝敗を分けます。両目が見えていても、ほんの少しの判断の遅れで負けてしまう事があります。騎手にとって、五感の中でも目を失う事が一番きついと思いました」
奇跡の復帰
そんな別府を驚かせる出来事が、起きた。
「怪我をして3カ月弱で、調教に復帰していました。あれほどの大きな事故からこんなに早く戻って来られるのか?!という思いと、本人の諦めずにまだ乗りたいという気持ちの強さに、ビックリしました」
暫く様子を見守ると、本人の強い意志と、隻眼とは感じさせない騎乗ぶりに感服した。しかし……。
「果たして片目を失った状態で騎手免許を更新出来るのか分からなかった事もあり、簡単に『頑張って』というのは違うと思いました。また、本人が元々口数の多くない人でもあり、おいそれと話しかける事も出来ない状況が続きました」
その後も手術が続いた。また、地全協の騎手試験も受け直しを余儀なくされた。
「常に気になってはいたけど、何て声をかけて良いのか分からず、話しかけ辛い毎日でした」
そんな別府の気持ちを知ってか知らでか、宮川は自らの努力で奇跡を起こした。10年5月29日、ついに競馬場に彼は戻って来た。約1年1カ月の時を経て、騎手・宮川実の時計が、再び動き出した。当時の心境を別府が語る。
「何とも言えない感情になりました。勿論、嬉しいのですけど、凄い精神力というか、ただ“凄い”だけでは片付けられない感情が、私の中にも強く芽生えました」
やっと祝福の声をかけ、会話をする事が出来た。すると、外から見ていただけでは気付かなかった苦労を思い知らされた。
「行動を見ている限り、隻眼というのを感じさせないのですが、本人的にはやはり距離感の違いに相当、苦労したようです。例えば、お茶を注ぐ時にこぼしてしまうとか、兄とのキャッチボールが出来なくなったとか……。それまで普通に出来ていたのに、あの日を境に出来なくなった事は他にも沢山あるようでした」
ところが、いざ競馬で一緒に乗ると、別の意味で驚かされた。
「元々、天性の感覚が優れていた人なので、そこでカバー出来たのか、怪我をする前と同じように素晴らしい騎乗をしていました」
それどころか、時間を経るに従って、その手綱捌きには拍車がかかった。
13年6月には通算1000勝を達成すると、21年には全国勝率1位の座に輝いた。そして、22年には通算2000勝を達成すると共に、勝ち星で全国リーディング。今年、佐々木竹見カップに初出場すると、いきなり優勝。そして、激しい戦いを勝ち抜き、JRAで行われたワールドオールスタージョッキーズにも初めての参加を決めた。
入籍、そしてWASJに初参戦
そんな宮川と、5年の交際を経て、18年に籍を入れた別府。現在、調教師となった宮川真衣は言う。
「ワールドオールスターの予選ラウンドは、盛岡も園田も応援に行ったのですが、見ていても優勝に気付かず、後から周囲の人に言われて知りました。まさか出られるとは思っていなかったので、驚いたし、嬉しかったです」
家族ぐるみの付き合いから、大きな怪我を克服する姿勢を尊敬し、惹かれて結婚。喧嘩をする事は滅多にないそうだが、昨年、一度だけ「こんな事があった」と言う。
「宮川本人の性格は勝負事に向いているとは言えず、あまり欲を感じさせません。でも、昨年はリーディングを狙えそうだったので、私から私の父(別府真司調教師)にも協力してくれるようにお願いしたら、それを聞いた主人に、叱られました」
「正直、もっと欲を持ってほしい」という気持ちは今でもあるそうだが、同時に、次のようにも語る。
「とはいえ、怪我なく乗ってもらえる事が一番です。それに優るモノはありません」
今回のワールドオールスタージョッキーズで、残念ながら宮川は勝つ事が出来なかった。しかし、真衣は次のように語る。
「狭き門を突破して、札幌まで連れて来てくれただけで、感謝で一杯です」
実際、レースを終え、無事に上がって来た彼を迎える宮川真衣の表情が優しさに包まれていた事を最後にお伝えしておこう。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)