夏目漱石に鰻を奢らせたあと「お金も貸して」といった偉人の人生を紹介
夏目漱石といえば、「吾輩は猫である」や「坊っちゃん」などの有名文学を誕生させた明治時代を代表する作家のひとりです。
そんな夏目漱石に鰻を奢らせ、その直後に「お金も貸して」と言った図々しい男がいたといいます。
詳しくみていきましょう。
夏目漱石に奢らせた男の正体
夏目漱石に鰻を奢らせ、その直後に「お金も貸して」と言ったのは「正岡子規」という男です。
超がつくほどの大食いで、現代では見た目が芸能人のバイキング小峠さんに似ていると話題になったこともあります。
そんな正岡子規は俳人として活躍した人物であり、同じ道を歩んだ夏目漱石とは親友の仲でした。
2人の出会いと不治の病
正岡子規と夏目漱石の最初の出会いは、明治22年のことです。
2人は自身の趣味である落語・講談などの演芸場「寄席」で出会い、意気投合して生涯の友としての関係を深めたのだとか。
しかしその後、正岡子規は「肺結核」と診断されてしまいます。
肺結核とは、昭和20年頃まで「不治の病」といわれた恐ろしい病気でした。
自身の余命を知った彼は、肺結核を患ったことに加え、大学の学年末テストで落第したことをキッカケに日本新聞社へ入社。自立の道を歩みはじめました。
52日間の共同生活
明治28年、地元・愛媛に帰省することになった正岡子と松山に赴任していた夏目漱石は、下宿「愚陀仏庵」で再開を果たし、生活を共にします。
この共同生活の途中で、正岡子規は夏目漱石に鰻を奢ってもらい、その直後にお金まで借りたそうです。
実は正岡子規は自身の食べたい物は好きなだけ食べるという人物で、お金がなくても鰻を食べたいという本能に従いお金は夏目漱石に負担させたのでした。
そんな正岡子規に怒りを見せるでもなく、その後も親友として接した夏目漱石。
52日間の共同生活後も2人の関係は、良好なままだったとといいます。
病に伏す俳人
今まで自由奔放に過ごしてきた正岡子規ですが、肺結核の悪化が影響して明治35年頃には立ち上がれないほど弱っていました。
そして床に伏すことも多くなっていきましたが、夏目漱石との交流は続いており、病気の苦しみや辛さを手紙にして郵送。
一方、ロンドンに留学していた夏目漱石は、異国での出来事や生活を物語にして手紙を送り返しています。
そのような日々に終止符が打たれたのは、明治35年9月のこと。
正岡子規は、享年34歳という若さで息を引き取りました。
愛媛県松山市には、松山出身の偉人である正岡子規や秋山兄弟を中心に展示を行う「坂の上の雲ミュージアム」があります。
正岡子規について知りたいと思った方はぜひ、足を運んでみてくださいね。