一度は愛した夫、裏切りはしませぬ!戦国時代を生きた夫婦の壮絶ラブストーリー
戦国時代でもっとも妻を愛した戦国武将・細川忠興をご存知でしょうか。
妻が大好きすぎる細川忠興は、妻に見惚れた庭師の首を斬り落としたというエピソードが存在するほど嫉妬心の強い人物。
そんな彼が愛した妻・細川ガラシャは誰もが振り返るほどの美女でした。
夫・細川忠興に対しては塩対応だった細川ガラシャですが、彼女は戦国大名の妻として夫を裏切らない芯の強い女性でもありました。
今回は、戦国時代の波に飲まれていく不器用な二人の壮絶ラブストーリーを紹介します。
□そっけない美女との出会い
1563年、明智光秀と妻・凞子の間に誕生したのが「細川ガラシャ」です。
明智家の三女として誕生した彼女は「玉」と名付けられ、気高く男まさりな性格だったといわれています。
15歳になった玉は、周りの誰もが認める美人へと成長し、父親の主君・織田信長の勧めで細川忠興に嫁ぎました。
玉は夫に対して塩対応だったようですが、夫婦仲は良好であり、子宝にも恵まれています。
□玉の人生を変えた父親の行動
1582年、京都の本能寺で玉の父親・明智光秀が織田信長に対して謀反を起こします。
腹心の裏切りに虚を衝かれた織田信長は本能寺で自殺(本能寺の変)。
主君の訃報を知った豊臣秀吉は、裏切り者・明智光秀の落武者狩りをおこないました。
明智光秀の娘である玉は「謀反人の親族」となり、夫・細川忠興によって丹後国(現在の京都府)に幽閉されてしまいます。
この幽閉には諸説ありますが、細川忠興が玉との離婚を避けるためにとった処置だとも考えられています。
その後、織田信長の没後に覇権を握った豊臣秀吉の計らいで、事件のほとぼりが冷めた頃に玉は解放されました。
□キリスト教との出会い
丹後国から戻った玉は、夫・細川忠興の話に登場した「カトリック(キリスト教)」に興味を示します。
そして、細川忠興が九州征伐へ出陣した隙に、数名の侍女を連れてキリスト教会を訪れました。
その後は侍女を通じて教会と連絡を取っており、キリストの教えを学んでからは謙虚で穏やかな性格になったといわれています。
しかし、1587年にキリスト教を固く禁止する「バテレン追放令」が発布。
これを知った玉は、宣教師が追放される前に洗礼を受けています。
そして、洗礼名「ガラシャ」を授かり、以降は細川ガラシャと名乗るようになりました。
九州征伐から帰国した細川忠興は、洗礼を受けたガラシャを叱りつけます。
結果的にガラシャは反省することなく、細川忠興は一夫一婦制を理想とするキリストへの当てつけか「側室を5人設けるぞ」と宣言。ガラシャを嫉妬させたい思いもあったのかもしれませんが、逆にガラシャの心を遠ざける結果となります。
以降は離婚を考えるようになったガラシャですが、当時のキリスト教は離婚を認めませんでした。
□細川ガラシャの最期
1600年、細川忠興は徳川家康に従軍し、会津征伐(上杉征伐)に出陣。
このとき、豊臣秀吉の没後に覇権を握った「徳川家康」と豊臣政権を維持したい「石田三成」は一触即発の状態でした。
そして、徳川家康が会津征伐に出陣した隙を突いて、石田三成は諸大名の妻子を人質にとる作戦を実行します。
石田三成は、ガラシャのいる細川屋敷も包囲し、投降するように命じました。
しかし、ガラシャは投降に応じることなく「我が夫が命じた通りになさい」と家臣に呟きました。
実は、細川忠興は日頃から屋敷を離れる際には「妻の名誉に危機が生じる際は、亡き者にしろ」と家臣に命じていたのです。
死を覚悟をしたガラシャですが、自殺はキリスト教が禁止していたため、家老・小笠原秀清に自身の殺害を命じました。
小笠原秀清は、ガラシャの遺体が残らないように屋敷に爆薬を仕掛けて自殺。
このことを知った石田三成は驚愕して、これ以上の被害拡大をとりやめています。
□その後
細川ガラシャは「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」という辞世の句を残しています。
これは「花は散り際を知っているからこそ美しい。人もそうであるべき。そして、今こそがそのときである」という意味の句です。
ときには離婚も考えた細川ガラシャですが、夫を裏切らない選択肢が自身の死であることを理解しこの世を旅立ちました。
普段の塩対応が原因で夫を愛していないのではないかともいわれる細川ガラシャですが、実は不器用なだけで本当は夫・細川忠興のことを愛していたのかも知れません。
細川ガラシャの没後から2年後、細川忠興は現在の福岡県北九州市にある小倉城を拠点とし、約260年続く太平の世を築く足掛かりとして奔走しています。