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ウクライナ侵攻で生演奏が聴けなくなったアーティストたち

中東生Global Press会員ジャーナリスト、コーディネーター
咋年のザルツブルク音楽祭で《トスカ》に出演したアンナ・ネトレプコ夫妻(筆者撮影)

 イギリスではBBCラジオから流れるアラームで始まったという2月24日は、欧州の平和を完全に過去のものにした。それから1ヶ月以上も続く戦争に心が痛む。それは皆同じだろう。その上で、音楽関係の仕事をする者として、音楽界も分断されていくのを見ると無力感に襲われる。欧州のクラシック音楽界がどのような経緯で現在の立場を取るに至ったか、振り返ってみたい。

 まず耳に飛び込んで来たニュースは、「ドイツ・ミュンヘン市長らがミュンヘン・フィルハーモニーの首席指揮者を務めるワレリー・ゲルギエフに、以前から親しくしているプーチン大統領との関係をウクライナ侵攻後も続けるのかどうか確認しており、2月中に納得のいく返答が得られない場合は解雇する」というものであった。イタリアのミラノ・スカラ座も立場を同じくし、上演中のチャイコフスキー作曲オペラ《スペードの女王》の指揮者交代を視野に入れて返答を待った。

 時を同じくして、スイスのチューリッヒ歌劇場経営陣も、ヴェルディ作曲のオペラ《マクベス》再演に際し、3月26・29日の2回出演する予定だったアンナ・ネトレプコに、プーチンと距離を置くかどうか、彼女の立ち位置を問いただしていたという。

 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団は2月25日からニューヨークのカーネギーホールで3日間公演したが、24日には既に、ゲルギエフとピアニストのデニス・マツーエフの降板を発表していた。マツーエフは2014年のクリミア併合を支持したと言われる。

 週が明けた2月28日、隣国に先駆けてスイスのルツェルン音楽祭は、8月に予定されていたゲルギエフ指揮、サンクトペテルブルク・マリインスキー劇場管弦楽団の2公演とデニス・マツーエフのピアノ協奏曲出演をキャンセルすると発表した。同日、同じくスイスのヴェルビエ音楽祭も、フェスティバル・オーケストラの音楽監督だったゲルギエフを解雇した。フランスのフィルハーモニー・ド・パリでも、4月に予定されていたゲルギエフとマリインスキー劇場管弦楽団の公演を中止した。

 ゲルギエフの沈黙を受けて3月1日、ミュンヘン・フィルハーモニーの首席指揮者の職を解いたとディーター・ライター市長が発表した。チューリッヒ歌劇場も同日、「双方合意の下」ネトレプコの出演をキャンセルした。ドイツのバーデン・バーデン祝祭歌劇場やハンブルク・エルプフィルハーモニーも同じ立場を表明し、ミュンヘンのエージェントはゲルギエフのマネージメント契約も解消した。

 いちばん驚いたのは3月6日、トゥガン・ソヒエフがモスクワ・ボリショイ劇場の音楽監督兼首席指揮者と、フランスのトゥールーズ・キャピトル国立管弦楽団の音楽監督両方を辞任した事だった。「政治家ではない音楽家として、フランス音楽かロシア音楽、どちらかを選ぶことはできなかった。」と長いコメントを発表したが、音楽家である前に一人の人間として、この非常事態にどう対処するのかに触れていなかったのは違和感を残した。ボリショイ劇場のウラジーミル・ウリン総支配人はモスクワの芸術家を集めて停戦の請願書を出しており、政治的に中立の立場でこの劇場に留まることは不可能な状態だと推測される。現にプーチン大統領はゲルギエフにマリインスキー劇場とボリショイ劇場を統括する役職を打診しており、ウリン総支配人と共に「粛清」されず、ゲストコンダクターとして演奏活動を続けるにはこの方法しかなかったのではないか。

 ネトレプコを見い出し、世界的スターの座に押し上げたドイツ・グラモフォンは、今後ネトレプコの録音は予定していないと明言し、傘下にある所属事務所CSAMもマネージメント契約を解消したと発表した。ネトレプコの現在の夫ユシフ・エイヴァゾフは引き続きマネージメントするというが、アゼルバイジャン人のエイヴァゾフは、ネトレプコの夫でも直接プーチン大統領とは関係がない、ということなのだろうか。

 20年来トップの座に君臨し続けていたネトレプコは、プーチン大統領との親交の他、ウクライナのサポートでも教育を受けた過去を持つ、微妙な立場だ。自身は被害者に心を寄せつつ、「政治家ではなく音楽家に政治的決断を迫るのは酷」という声明を出し、現在は演奏活動から隠遁しているという。個人的には彼女の円熟期が聴けないのは残念だ。

 ここまで書いた直後の3月30日、ベルリンの弁護士を通してネトレプコは、自分の発言が誤解を招いたかもしれない事、プーチン大統領とは数える程しか会ったことがない事、ウクライナの戦争に公式に反対する事、などを宣言し、5月に音楽界に復帰すると発表した。これは音楽が独裁者に勝った手本になるだろう。

 これから世界が自制していかなければならないのはロシア排斥運動だ。ルツェルン音楽祭のミヒャエル・ヘフリガー総裁は、ダニール・トリフォノフなど、親プーチン派とされていないロシア人は当音楽祭との契約を継続する姿勢を強調している。しかし例えば、チェリストのアナスタジア・コベキナは、公式にウクライナ侵攻反対を唱えても、ロシア人というだけで、2月27日のコンサートをキャンセルされた。これは不穏な状況の単なる一例で、単独の音楽会ではロシア人を起用しにくくなっている。

 ポーランドなどロシア音楽を奏でないと決定した国も出ており、今後ロシアでは出演しないと宣言している東欧出身のアーティストも名を連ねる。以前旧ソ連やロシアから「侵攻」された地域の国民は、同じ惨事が繰り返されるのを止めたい一心なのだろう。しかし、そのような分断はプーチン大統領にとって、格好の餌になるのではないか。

 今後の世界がどうなっていくのか、戦況も音楽界も分からない。ただ、武力に勝てるのは結束力だ。音楽が繋ぐ絆が力を発する事を祈る。

Global Press会員ジャーナリスト、コーディネーター

東京芸術大学卒業後、ロータリー奨学生として渡欧。ヴェルディ音楽院、チューリッヒ音楽大学大学院、スイスオペラスタジオを経て、スイス連邦認定オペラ歌手の資格を取得。その後、声域の変化によりオペラ歌手廃業。女性誌編集部に10年間関わった経験を生かし、環境政策に関する記事の伊文和訳、独文和訳を月刊誌に2年間掲載しながらジャーナリズムを学ぶ。現在は音楽専門誌、HP、コンサートプログラム、CDブックレット等に専門分野での記事を書くとともに、ロータリー財団の主旨である「民間親善大使」として日欧を結ぶ数々のプロジェクトに携わりながら、文化、社会問題に関わる情報発信を続けている。

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