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極大化と極小化 -2020年のドラマ予想-

成馬零一ライター、ドラマ評論家
本文中で触れている一人キャンプのイメージ(写真:GYRO PHOTOGRAPHY/アフロイメージマート)

 新年、あけましておめでとうございます。

 今年もよろしくお願いします。

 さて、今回のドラマジャーナルは、新年第一回目の記事ということで、2020年のドラマ予想を語ってみたいと思います。

 まず、10年代のドラマについて総括します。

 簡単に言うと、10年代のドラマは極大化と極小化という正反対の方向に進化してきたと言えるでしょう。

 まず、極大化。

 代表は、NHKが誇る二大コンテンツである朝ドラこと「連続テレビ小説」と大河ドラマです。

 特に前者の勢いは凄まじく、現在、日本人の共通言語として機能していると言える唯一の存在が朝ドラと言っても過言ではないでしょう。

 EXILE TRIBEが企画・制作をする総合エンターテインメント『HiGH&LOW』(以下、『ハイロー』)シリーズもそうです。

 つまり巨大な世界観や年代記の中で、膨大な登場人物が登場する他視点群像劇を展開する作品です。

 

 海外ドラマでは『ゲーム・オブ・スローンズ』が筆頭ですが、映画では『スター・ウォーズ』や『アベンジャーズ』を中心としたマーベル・シネマティックユニバースもそうです。

 こういった極大プロジェクトが席巻したのが2010年代でした。 

 

グルメドラマが席巻した2010年代

  

 一方、極小化とは、個人の行動を淡々と撮るようなドラマのことです。

 代表作はテレビ東京系で放送されている深夜ドラマ『孤独のグルメ』でしょう。

 大晦日にもスペシャルドラマが放送された本作ですが、実はSeason1がはじまったのは2012年でした。その後、同年の10月にSeason2が放送。以降はほぼ一年おきのペースで新しいシリーズが放送され、2019年の時点でSeason8まで作られました。その意味で2010年代を代表する作品だと言えます。

 物語は個人で輸入雑貨商を営む井之頭五郎(松重豊)が仕事の合間に立ち寄った飲食店で食事する様子を描いたもの。元々は月刊PANJAやSPA!(それぞれ扶桑社)で連載されていたグルメ漫画(原作:久住昌之、作画:谷口ジロー)だったのですが、本作が漫画としてユニークだったのは、いわゆる『ミスター味っ子』(講談社)や『美味しんぼ』(小学館)と違って勝負モノではなかったことです。

 

 厳密に言うならば、五郎が料理を美味いか不味いかをジャッジしているという意味においては、料理店と客(五郎)の対決を描いているとも言えなくはないですが、そういった料理をめぐる葛藤はすべて五郎のモノローグを通してのみ描かれます。

 つまり、そこで繰り広げられているのは徹底的に自己完結した世界であり、この“ぼっち感”を楽しく描いたことこそが『孤独のグルメ』の最大の功績だったのではないかと思います。

 『孤独のグルメ』のヒット以降、深夜ドラマを中心にグルメドラマは次々と作られました。1995年にドラマ化された『金田一少年の事件簿』(日本テレビ系)がミステリードラマのフォーマットを作り、一ジャンルとして定着させたとすれば、間違えなく、『孤独のグルメ』はグルメドラマのフォーマットを作り、一ジャンルとして定着させたと言えます。

 グルメドラマは、主人公がおっさんの時もあれば女子高生の時もありますが、基本的には楽しそうにご飯を食べている場面さえ描ければ成立します。

 撮影の規模が小さく役者の数も少なくてすむため、低予算で量産できるのでしょう。

 突然、テレビを付けたら、深夜に美味しいそうな料理が映って思わず何か食べたくなるため「飯テロ」と言う言葉まで生まれました。

 昨年話題になった『きのう何食べた?』(テレビ東京系)も『孤独のグルメ』の手法を発展させた作品だと言って間違えないでしょう。

 

グルメドラマから“ぼっちドラマ”へ

 

 また昨年は、サウナを舞台にした『サ道』や『一人キャンプで食って寝る』(ともにテレビ東京系)といったグルメドラマのフォーマットを他ジャンルに応用したドラマも生まれました。

 今後はアニメの『ダンベル何キロ持てる?』のような筋トレブームを取り入れたスポーツジムを舞台にした筋トレドラマも生まれるのではないかと思います。

 とは言え、ジャンルは変わっても作品の基本精神にあるのは、一人でそのジャンルを楽しむという自己完結した快楽の追求です。

 ここでアニメの『けいおん!』のように仲間とわいわいやる楽しさを全面に打ち出すと、いわゆる部活モノの延長になってしまいます。 それはそれで一つの方向性ですが、結局は仲間とのコミュニケーションが大事というところに着地してしまうのであれば既存のドラマと同じです。

 その意味で、これらの作品は、グルメドラマを経由して個人の自己充足した姿を描く“ぼっちドラマ”とでも言うようなジャンルへと進化しつつあるのではないかと思います。

 その意味で、YouTubeで個人が配信している動画に近いのではないかと思います。

 実際、『放課後ソーダ日和』のようなYouTubeで配信されるドラマもポツポツと生まれていますが、それよりは深夜ドラマのYouTube化と言った方が近いのではないかと思います。

 元・女優のりりかが「inliving.」名義でライフスタイルを淡々と見せる配信や、芸人のヒロシがキャンプする様子を配信する「ヒロシちゃんねる」をみていると、テレビ東京の深夜ドラマのようだと感じますが、これは実際は逆で、深夜ドラマが、YouTubeの作法を取り込みつつあるという方が正解でしょう。

 その結果として生まれつつあるのが“ぼっちドラマ”ではないかと思います。

 

 結論としましては、朝ドラ、大河、『ハイロー』 のような極大化と、『孤独のグルメ』のような極小化が同時に進んだのが2010年代だったということですが、実はこの2つは同じ現象だったのではないかと思います。

 たとえば『ハイロー』は全員主役を売りにしていましたが、これは一つ一つの要素を分解していくと、個人々々の集合体の話だったということです。

 

卵と壁

 

 2009年に小説家の村上春樹がエルサレム賞を受賞した時に式典で語った「卵と壁」のスピー-チを思い出してください。

 春樹は、ガザ地区で起きた激しい戦闘について触れ「高くて硬い壁と、壁にぶつかって割れてしまう卵がある時には、私は常に卵の側に立つ」と語りました。

 

 この比喩に対して、春樹は、爆弾、戦車、ミサイル、白リン弾が高くて硬い壁、それらに撃たれ、焼かれ、つぶされた非戦闘員市民が卵だと説明しています。 

 つまり、国家のような巨大なシステムが壁で、それらに潰される卵が個人。

 

 この比喩をもちいるならば、2010年代のドラマ(あるいはフィクション)は、卵と壁に二極化していったのだと言えます。

 ですが、その壁とは無数の卵の集合体なのではないかと、『進撃の巨人』(講談社)を愛読する私は思います。

 

中規模の物語の衰退

 

 極大化と極小化が同時に進み、実はこのふたつは同じ現象だった。

つまり極大化した物語は小さな個人の物語の集合体として描かれていたというのが私の結論です。

 

 この方向性は2020年代に入り、より進行していくのではないかと思います。

 その時に考えるべき課題はふたつあります。

 一つは、極大化と極小化の間で引き裂かれつつある“中間の物語”はどうなっていくのか?

 そして、もう一つは、ドラマはどこまで小さくできるのか? 

 まず中間の物語ですが、これは、今まで民放のプライムタイムに放送されていたような連続ドラマです。つまり、学園ドラマや社会人を主人公に仕事と恋愛を描いたような作品で、一昔前の月9のドラマがその代表です。

 こういった1クールかけて個人の恋愛事情を追うような作品はまだ定期的に作られていますが、かつてのように視聴者を引きつけることができなくなってきています。

 これはもちろん週一回一話決まった時間に放送するという放送形態が時代に合わなくなってきているという問題もあるのですが、 それと同時に他人の恋愛を追うこと自体を面白いと思える人が減ってきているのではないか。

 もしくは、『テラスハウス』のような恋愛リアリティーショーに負けつつあるのではないかと思います。

(ここでドラマ(虚構)はノンフィクション(現実)に勝てるのか? という別の問いが出てきますが、今回はあえてスルーします)

 実際、最近の仕事と恋愛を描いたドラマ、たとえば2019年に放送されたドラマでいうと『私、定時で帰ります』(TBS系)や『同期のサクラ』(日本テレビ系)は様々な立場の人々を描くクロニクル(年代記)を志向するという、物語の極大化に舵をきっているように思います。

 一見、恋愛要素が強そうにみえる『G線上のあなたと私』(TBS系)にしても、恋愛は登場人物の中にある様々な要素の一つに過ぎず、(仕事と恋愛と趣味のつながりを並列的に描いた)日常モノと言った方が正解だったように思います。

 このあたりは過去のトレンディドラマとくらべるとどんどん多角化しています。それと同時にかつて存在した“テレビドラマ”らしさみたいなものがどんどん消えつつあり、その意味で、中間領域に属した、かつてのドラマはどんどん極小化へと向かっていると言えます。

 

それでも”ぼっち化”しきれないとすれば

 

 そしてもう一つの問いです。

果たして、ドラマはどこまで極小化できるのか? 

 さきほど、『孤独のグルメ』から派生した『サ道』や『一人キャンプで食って寝る』をぼっちドラマと言いましたが、実は完全に“ぼっち化”は、できていません。

 特に『一人キャンプで食って寝る』を見ていて思うのは、個人の自己充足を一人キャンプを通して自己完結的に描いているように見えながら、劇中の人々は、なんだかんだで他人と接し、そこにドラマらしきものが発生してしまいます。

 

 これを、他人を出さないと物語が作れないという作り手の限界と捉えるのか? そもそも、物語は人と人の対話を通してしか成立しない。と捉えるべきかは、評価に迷うのですが、この“ぼっち化”しきれないことに、個人が配信するYouTubeの動画と、なんだかんだ言って他人との対話を求めてしまうドラマの違いが大きく現れています。

 ここに、2020年代のドラマを考える上での、大きなヒントがあるのだと思います。

ライター、ドラマ評論家

1976年生まれ、ライター、ドラマ評論家。テレビドラマ評論を中心に、漫画、アニメ、映画、アイドルなどについて幅広く執筆。単著に「TVドラマは、ジャニーズものだけ見ろ!」(宝島社新書)、「キャラクタードラマの誕生 テレビドラマを更新する6人の脚本家」(河出書房新社)がある。サイゾーウーマン、リアルサウンド、LoGIRLなどのWEBサイトでドラマ評を連載中。

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