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シリコンバレー史上、最も重要な倒産企業〜iPhone誕生物語(2)

榎本幹朗作家・音楽業界誌Musicman編集長・コンサルタント
92年のジョブズ。当時NeXT社の裏で、スマホ時代を先駆けた会社が倒産していた(写真:ロイター/アフロ)

 1972年。人類の目標がひとつ設定された。

「このエッセイでは、だれもが携帯できる情報端末の出現とその活用が、子供と大人に与える影響について考察します」

 この書き出しから始まる論文で、アラン・ケイは、パーソナル・コンピュータの未来像を描いてみせた(※1)。子供でも簡単に使えるタブレット・コンピュータ、「ダイナブック」構想だ。

 日本の家電業界でめざましく進む小型化・低価格化の流れを考えれば、コンピュータを超小型化したダイナブックは近いうちに実現するだろうとケイは結論づけたが、その予測はずいぶん外れた。

 携帯電話が発明される1973年の1年前、パソコン時代を切り開いたApple IIが発売される1977年より5年前のことだ。

 当時のCPUでは、タブレットを実現するのは夢物語だった。そうわかるとケイは、理想への橋渡しとなる技術を手がけることにした。

 それがマウスとアイコンでパソコンを操るインターフェース、GUIの開発だった。1979年、ゼロックス研究所でケイのGUIをジョブズとゲイツが見たことで、80年代にマッキントッシュとWindowsが誕生することになるが、若きジョブズたちがパーソナルコンピュータの成功で満足することはなかった。

 ケイに影響を受けた若きふたりが、誰もがタブレット・コンピュータを使う未来図を忘れるはずがなかったからだ。

 タブレットを小さくして電話にしよう…そうジョブズが閃いた時、ケイの未来図は実現の道を見つけることになる。

 だが今回は前世紀、既にその未来図へ向かって奮闘し、破れていった会社があったことを語りたい。そこにAppleだけでなく、黄金時代のSonyも関わっていたからだ。

 1985年。ジョブズは会社から追放されてしまったが、Appleにはタブレット・コンピュータの構想が残った。1987年には映像デモが公開されている(http://youtu.be/JIE8xk6Rl1w)。

 ジョブズを追放し、彼のビジョンを踏襲したAppleのスカリーCEO(当時)は、パソコン用のCPUではタブレット・コンピュータを創れないことに気づいた。

小さな端末をつくるには、パソコン用より遥かに低電力のCPUがどうしても必要だったのだ。

 それでスカリーは、低電力CPUを設計する会社をジョイントベンチャーで立ち上げた。そのベンチャー企業が30年後弱、日本のソフトバンクに3.3兆円の価値で買収されるとは当時の誰も知る由もない。ARM社のことである。

そして1990年の春には今回の主役、『ジェネラルマジック』計画がApple社内で始動した。

 それはスマートフォンを予見したかのようなコンセプトだった。

 タッチパネルを搭載した情報端末にアプリと電話の機能を収斂し、「クラウド」(これが語源だ)という名のサーバ群にアプリを同期してサービスを提供する。インターネットも誕生していない当時に、そんな社会を実現しようとしたクレイジーな集団には、Macを生み出したエース級エンジニアたちが参加した。

 Mac OSのユーザーインターフェース(Finder)を手がけたアンディ・ハーツフェルド。そのGUIの基盤となった描画 API(QuickDraw)を書いたビル・アトキンソンがそうだ。

 ジョブズが去って後、革新的な仕事ができなくなったふたりは苛立っていたが、再び情熱を傾けるに値する理想を見つけた。ウィザード(魔術師)と称されるこのふたりが参加したことで、シリコンバレーの事情通から注目されるプロジェクトとなった。

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▲Sony製のマジック・キャップ端末。Mac OSを創ったビル・アトキンソンとアンディ・ハーツフェルドが『CDの父』大賀典雄にプレゼンして実現。これがいずれ携帯電話となることをふたりはイメージしていた。ジェネラル・マジック社にはAndroidの父となるアンディ・ルービン、iPhone開発責任者となるトニー・ファデルがいた (wikimedia commons https://goo.gl/VxWkHf)。

 1990年の秋、アトキンソンとハーツフェルドは繁栄の絶頂にあった日本へ旅することになった。世界のハイテク企業の盟主であったSonyに出資を仰ぎ、スピンアウトしようとしていたのだ。

 少し後だがふたりはインタビューで、SonyのCD Walkmanで進む小型軽量化と搭載ディスプレイの大型化を例にとって、来るべきデバイスの収斂を説明している。音楽もまた情報端末の上で花開く。そんな未来像だ。

 その未来図に強く興味を持ったSonyの経営陣は本社ビルにふたりを招いた。そして、Macintosh OSを超える世界をつくらんとする魔術師たちのプレゼンを熱心に聞きこんでいた。

「いつ日本を発つのですか?」

 デモを見終えた"CDの父"、大賀典雄社長はふたりに質問した。火曜日だった。

「金曜日には帰国します」とハーツフェルドが答えると大賀は振り返り、「木曜日までに社内の意見をまとめてくれたまえ」と部下に命じた。プロ歌手出身という異色の経営者が下した即断即決に、音楽フリークのハーツフェルドたちは思わず歎声を漏らしたのだった(※2)。

 ジェネラルマジック社はApple70%、Sony10%、Motorola10%の株主比率で立ち上がったが、雲行きが怪しくなるのに歳月を要さなかった。

 1992年1月。ビースティ・ボーイズがメジャーアーティスト初となるウェブプロモーションを行うことになるこの年(※9)、世界最大の消費者家電ショーCESの基調講演に登壇したのはスカリーだった。Appleは前年、IBMを抜いて世界一のパソコンメーカーになっていた(※3)。

 余談だがビースティ・ボーイズが『11PM』に出演し、黒木香と悪ノリしている横で通訳をしていたのが今のSonyのCEO平井和夫氏だ。その映像がネットに残っているのを以前、教えていただいたことがある。

 話を戻そう。CESに登壇したスカリーは、デバイスの収斂が進み、コンピュータと消費者家電の融合が起こると予言。Appleの答えとして、PDAというコンセプトを世界に提案した。

 だがそれはジェネラルマジックの製品(Magic Cap)ではなく、ニュートンを指していた。

 ニュートンはもともとタブレット・コンピュータに近い計画で始まった。しかし技術的に商用化が無理だったため、機能をPDAに絞り込み、小型化・低価格化を目指すことになった。それでジェネラルマジックと競合する齟齬が起こった。

「携帯電話を再発明するんだ」

 そうAppleのスタッフが言っているのを聞いたとき、アトキンソンは胸騒ぎがした(※4)。

 PDAと電話の融合で情報端末の正解は出ない…。情報がシステム手帳程度に限定されてしまうからだ。そういうものとジェネラルマジックの理想が混合されるのではないか。彼はそう危惧したのである。

 時を待たずしてAppleのニュートンとジェネラルマジックのマジックキャップは、共に混乱してゆく。

 スカリーはAppleが世界一のパソコンメーカーになったあたりで、大統領選でクリントン候補の応援につきっきりとなり、Macに興味を失った。興味の残った事業は、ハンドヘルドのニュートンと次世代OSだったが、どれも失敗へ向かっていった。

 デルやコンパックといった価格破壊型のパソコンメーカーが登場し、低価格化のトレンドにさらされたマッキントッシュ事業は一気に収益が悪化。先の基調講演から1年でスカリーは退陣に追い込まれた。

 歴史は繰り返すと言うが近年、中国Xiaomiの台頭で、サムスンやSonyのスマートフォン事業に起きた危機と同じだった。

 スカリーの庇護を失ったニュートンは開発が停滞。1996年、PDAの概念をさらにシンプル化して小型化に成功したPalm Pilotが出るとあっさり抜かれ、敗北した。次世代OSの開発も難航し、Mac OSの進化が停滞したところで、Windows95が登場。Appleは暗黒時代に陥ってゆく。

 Appleは世界一達成からわずか5年あまりで、ジョブズのいう「倒産60日前」に追い込まれていった。

 次世代OSとハンドヘルドでイノベーションを目指したまでは正しかった。だが、プロダクトを磨き上げて完璧にまで導くクリエーター魂をスカリーは持ってていなかった。結果、あっさりイノヴェーションを後発に奪われたのだった。

「利益があればこそ、すごいプロダクトを作っていける。でも原動力はプロダクトであって利益じゃない。スカリーはこれをひっくり返して、金儲けを目的にしてしまった」

 晩年、この頃のAppleを振り返って、ジョブズはアイザックソンに語った(※5)。

「このわずかな違いが、全てを変えてしまうんだ。誰を雇うか、誰を昇進させるか、会議で何を話すか、全てさ」

 ここ数年、遅ればせながら日本でも定額制配信(サブスク)が次々と生まれた。

 ジョブズが正しければ、ビジネスだけで立ち上がった定額制配信はいずれ優位性を失うかもしれない。 国産ならなんでもいいというものではない。音楽配信もひとつの創作物だ。劣化版コピーをユーザーは無意識に見抜く。最後は、磨きぬかれたクリエイティブなサービスを音楽ファンは支持することになるのだろう。

 話を戻そう。ジェネラルマジックは「銀の舌を持つ悪魔」とまで呼ばれたマーク・ポラトの冴え渡る外交で、壮大な陣営を築いていった。Sony、松下(現パナソニック)、フィリップス、モトローラに加え、通信業界の巨人AT&TとNTTを自陣に引き入れた。

 ジェネラルマジックの理想は高かったが、専用の通信環境とクラウド・サーバをいちから構築することを通信産業に求めていた。

 確かにプロジェクトの始まった1990年5月にはそうする他なかった。WWW(ワールド・ワイド・ウェブ)はその半年後まで存在すらしていなかったからだ。

だが会社が上場した1995年には、わずか5年でWWWが情報インフラのデファクト・スタンダードを制していた。1999年には大量解雇が始まり、2002年にジェネラルマジックは破産した。

 シリコンバレー史上、最も重要な倒産企業。

 2011年、フォーブズ誌はジェネラルマジック社をそう呼んだ(※6)。同社の解雇・倒産が、次の扉を開いたからである。 倒産したジェネラルマジックからは、とある二人の若い社員が再起をかけて独立した。

 Androidの父となるアンディ・ルービンと、iPhoneの開発責任者となるトニー・ファデルである。

 アンディ・ルービンはApple社から子会社への移動組。トニー・ファデルはAppleのインターンからそのまま子会社の新入社員となっていたのだ。

アンディ・ルービンは、「放送とITの融合」を目指すビル・ゲイツが設立したWeb TV社に転職。その後起業して、ブラックベリーよりも先に初期スマートフォンの傑作サイドキックを創りあげる。

 そして2003年にAndroid社を創業。2005年にGoogleに買収された。その後、「AndroidはiOSのパクリ」と誹りを受けるが、彼の方が先にスマホを手がけていたのだった。

 トニー・ファデルは携帯デバイスが専門のコンサルタントになった。そして念願だった音楽配信とデジタル・オーディオ・プレイヤーをひとつにしたビジネスモデルを、Appleで実現した(※7)。 iPodとiTunes Music Storeのことである。

 PDAのニュートンを支えたARMプロセッサが9年後、音楽プレイヤーも可能な速度にたどり着くと、ファデルはiPodをこれに採用。ジョブズはiPodの上に、iTunesミュージックストアを築いた(※8)。

 初代iPodの6年後、ARMプロセッサのパワーが汎用コンピューティングが出来る閾値に達した段階で、iPhoneが誕生する。

 iPhoneの開発責任者もファデルだった。

 当然、ルービンのAndroid陣営もARMを採用している。スカリーが興したといってよいARMは、ポストPCの要石となった。

 なお、アンディ・ハーツフェルドはGoogleに行った。Google News、その次にGoogle+を担当している。Google+はYouTubeの標準SNSとなった。定額制配信のYouTube Redが普及すれば、音楽に最も近いSNSは、ハーツフェルドも手がけたGoogle+になるかもしれない。

 スマートフォン時代の立役者たちは、みなAppleとSonyのベンチャー、ジェネラル・マジック社にいたのである。

 ここ20年間、音楽産業のビジネスモデルは、CPUの技術ロードマップに沿って変革を経験してきたが、その背後には常にAppleチルドレンたちがいたことになる。

Macから始まったパソコン、そしてネットの普及とファイル共有。iPodと音楽配信時代の始まり。iPhone登場からスマホが普及し、定額制配信の土壌が整ったこと…。

 ふだんブログや翻訳ニュースを読んで新しいサービスの明滅に一喜一憂しているうちに、何がなんだかわからない気分になるかもしれない。そのときは、技術ロードマップに沿って将来を展望してみることをおすすめしたい(続く)。

■本稿は「音楽が未来を連れてくる(DU BOOKS刊)」の一部をYahoo!ニュース 個人用に編集した記事となります。

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iPod誕生の裏側~スティーブ・ジョブズが世界の音楽産業にもたらしたもの(1)

※1 http://www.mprove.de/diplom/gui/kay72.html

※2 『Wired』1995年1月号 Bill And Andy's Excellent Adventure II, by Steven Levy

※3 『Wired』日本版1997年6月号 霧の中の狂想曲(文:織田孝一)

※4 原文は「アップルが自分たちはパーソナル・コミュニケーターを作ることで電話を再発明するんだと言い始めた時、僕らは思ったね。『なんだ、連中はマークに言った話を変えちまったのか』って」 『Wired』1995年1月号 Bill And Andy's Excellent Adventure II, by Steven Levy

※5 Walter Isaacson(2011) "Steve Jobs", Simon & Schuster, pp.567

※6 http://www.forbes.com/sites/michaelkanellos/2011/09/18/general-magic-the-most-important-dead-company-in-silicon-valley/

※7 榎本幹朗「音楽が未来を連れてくる(DU BOOKS刊)」第二部 再生の章

※8 同上

※9 John Alderman (2001) "Sonic Boom", Basic Books, Chapter 4 (Line 807 on Kindle book)

作家・音楽業界誌Musicman編集長・コンサルタント

著書「音楽が未来を連れてくる」「THE NEXT BIG THING スティーブ・ジョブズと日本の環太平洋創作戦記」(DUBOOKS)。寄稿先はNewsPicks、Wired、文藝春秋、新潮、プレジデント。取材協力は朝日新聞、ブルームバーグ、ダイヤモンド。ゲスト出演はNHK、テレビ朝日、日本テレビ等。1974年東京都生まれ。上智大学英文科中退。在学中から制作活動を続け2000年、音楽TV局のライブ配信部門に所属するディレクターに。草創期からストリーミングの専門家となる。2003年、チケット会社ぴあに移籍後独立。音楽配信・音楽ハード等の専門コンサルタントに。2024年からMusicman編集長

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