国内で唯一、「お釈迦様の真骨」がある場所とは お釈迦様が「実在した」確固たる証拠
愛知県は国内でも最多、それも圧倒的な寺院数約4600ヶ寺を有する仏教県である。2位の大阪(約3400ヶ寺)と約1200ヶ寺の開きがある。これは尾張徳川家が浄土宗を重んじ、庇護したからである。したがって愛知県には松平・徳川家の位牌を祀る菩提寺大樹寺(岡崎市)など浄土宗寺院が多い。
しかし、愛知県には日本で唯一無二の寺がある。それが覚王山日泰寺(名古屋市、無宗派)だ。なぜなら日本で唯一、釈尊の真骨(仏舎利)が祀られているからだ。全国には仏舎利塔がある古刹名刹も少なくないが、由緒がハッキリしているのは日泰寺だけ。国内の名刹の中では歴史はかなり浅く、開闢は明治時代後期だ。釈迦の墓所ありきで近代に開かれたため、「神仏習合していない寺」であることはもちろん、特定の宗派に属していない。また地元名古屋の企業が総代会を構成し、維持している稀有な寺である。
国内に伝えられている「仏舎利塔」の真実
日本で最も尊い仏教聖地を挙げるならば、あなたはどこを選ぶだろう。聖徳太子が開基の法隆寺? 鎮護国家仏教の象徴である東大寺? 弘法大師空海が開いた高野山金剛峯寺? あるいは伝教大師最澄が開いた比叡山延暦寺? それともこの世の極楽を思わせる京都の鹿苑寺金閣だろうか。
いずれもわが国を代表する仏教寺院には違いない。だが、仏教徒ならば一生に一度は参拝に訪れなければならない、聖地中の聖地がある。名古屋の日泰寺である。ここには日本で唯一、釈迦の真骨が納められている。
寺院史に詳しい人は、こう言うかもしれない。
「日本には仏舎利塔はいくつもあって、そこにはお釈迦様の遺骨が納めてあるはずでしょ」
確かに五重塔などの仏塔は、釈尊の遺骨を祀るために造られたストゥーパを発祥とする。例えば大阪市天王寺や奈良の法隆寺の五重塔には、仏舎利が納められていると伝わる。
また、民間で仏舎利塔を建造したケースもある。
静岡県御殿場市にある平和公園の仏舎利塔は直径45メートル、高さ47メートルの白亜の塔で、御殿場市のランドマークになっている。これはスーパーマーケットチェーン三徳の社長がインド・ネルー首相から贈られた釈尊の遺骨を、私財を投げ打って1964(昭和39)年に建てたものだ。また、東京都稲城市のよみうりランドには、スリランカのミヒンタレー寺院より贈られた仏舎利と、バングラデシュのチッタゴン寺院より贈られた遺髪をあわせて安置した仏舎利塔が同じく、1964年に完成している。
わが国だけで仏舎利を祀る施設は、200か所以上はあると言われている。だが、日本の仏舎利塔に納められている釈尊の遺骨、遺髪の類は、それを象徴する瑪瑙や翡翠などの宝石や経典などに置き換えられたものがほとんど。先述のよみうりランドの場合、バングラデシュから正式に贈られた遺髪という一見、信憑性がありそうな感じもするが、そもそも釈尊は出家後、剃髪をしており、また火葬されているので遺髪は残りようがないのである。
お釈迦様は実在した!
翻って日泰寺に伝わる釈尊の遺骨はどうなのか。それは日泰寺の成り立ちに遡れば、真骨だと納得する史実がある。
日本が日清戦争と日露戦争の間にあった1898(明治31)年。年が明けてすぐ、世界は「19世紀東洋史上最大の発見」に沸いた。
イギリスの駐インド行政官ウィリアム・ペッペは、ネパール国境に近い英領インドのピプラーワー村の一部を荘園として保有していた。この地は釈尊の生誕の地と伝わるカピラヴァストゥがあった場所と伝えられていた。
ある時、自身の所有地内で、煉瓦と粘土で厳重に固められた墓跡を発見。発掘調査隊を編成して、堀り進めたところ、大きな石棺に行き当たった。蓋を開けると、そこからは壺3個のほか水晶の器などの埋葬品が続々と出てきた。壺を開けると「卍」を刻した印章や宝石のほかに、人骨が入っていた。そして壺の表面にはアショカ王時代の古代文字が刻まれていた。
埋葬の形態から、古代の重要な人物の墓に違いなかった。ペッペは新発見の可能性があると考え、欧州の考古学者らを招いた。彼らがピプラーワー村にやってきて古代文字の判読にあたると、そこには、
「これはシャカ族の世尊なる仏陀の遺骨の龕(がん、遺骨を納める厨子)であって、名誉ある兄弟姉妹・妻子とともに信の心をもって安置し奉るものである」
と記されていたのである。
様々な仏典や伝承との照合も行われた。それによると釈尊は紀元前3〜6世紀ごろ(諸説ある)、クシナガラで入滅。弟子たちによって荼毘に付された。その後、8つに分骨され、カピラヴァストゥに住む釈尊の親族シャカ族らに渡され、それぞれが丁重に葬ったと伝わっていた。
ペッペが発見した墓と埋葬品は専門家によって様々な分析、検討が行われた。その結果、釈尊の8つの埋葬地のひとつに違いないとの結論に達する。それまで宗教学者の間では、釈尊は実在せず、伝説の人物であるという説が一般的であっただけに、世紀の大発見となった。
釈尊の埋葬地から出土した遺品は大英博物館、コルカタ・インド博物館、そして発見者のペッペに贈られ、遺骨については仏教国であったシャム(現在のタイ)王室に寄贈されることになった。この真骨をシャムのチュラロンコン国王は有力寺院ワットサケットに安置。その上で、国王は真骨を独占することなく、同じく仏教国であるビルマ(現ミャンマー)とセイロン(スリランカ)に分骨、贈与したのだ。
当時タイ国内はお祭り騒ぎとなった。そこに、羨望の眼差しで祝賀行事を見ていたひとりの日本人がいた。タイ駐在公使稲垣満次郎であった。稲垣は、この機は二度とやってこないと考え、外務大臣であった国王の弟を通じて、
「是非とも日本の仏教徒にも、真骨をお分けいただけないか」
と嘆願した。すると国王は快く、
「タイ王国国王から日本国民への贈物とする」
として、下賜されることが決定した。
仏舎利を巡って仏教界が誘致合戦
この時、国王から条件がついた。それは特定の宗派の寺に祀るのでなく、日本の仏教徒がもれなく拝める仏殿を建立するように、とのことであった。
時に1900(明治33)年、各宗派のトップによる使節団がバンコクに到着。真骨を拝受した際には、国王より仏殿完成時の本尊として祀るようにと、1000年の歴史を有するタイの国宝金銅釈迦如来像が下賜された。
使節団の帰国後、真骨はいったん、京都の妙法院(天台宗)に仮安置され、各宗派の代表が集まって、寺院建立の候補地の協議に入る。候補地は最有力の京都を筆頭に東京、静岡の地名が挙がっていた。さらに全国各地から誘致の声が挙がり出した。候補地選定は混迷を極めた。
だが、にわかに名古屋が急浮上する。田代村(現在の千種区、昭和区)村長ら有志が13万坪の土地を無償提供すると申し出たのだ。最終的に投票で、名古屋が京都を覆した。
新しい寺を開くにあたっては、山号寺号を定めなければならない。最初に付けられたのは「覚王山日暹(にっせん)寺」。覚王とは覚りを開いた王、つまり釈尊の尊称である。地下鉄東山線の覚王山駅の駅名にもなっている。そして日暹は「日本と暹羅(シャム)」という意味である。のちにシャムがタイと改められ1941(昭和16)年に、日暹寺が「日泰寺」と改称した。
様々な紆余曲折を経て1904(明治37)年、日本で唯一、出所が明確に証明できる釈尊の真骨を祀った無宗派の寺院が開山したのである。だがこの年、日露戦争が勃発。世間はすっかり釈尊の真骨の話題から離れ、戦時体制色に染まっていた。
さて釈尊の真骨はしばらく日暹寺の仮本堂に安置されていたが、1914(大正3)年に念願の奉安塔が完成した。設計は平安神宮、築地本願寺、大倉集古館などを手がけた東大教授伊東忠太である。
奉安塔(冒頭の写真)はガンダーラ形式で高さおよそ16メートル。塔の周りを土塀が囲み、塔の前には礼拝殿と唐門ができた。しかし、あまりに恭しく祀った結果、一般参拝客は奉安塔の全容を拝めなくなってしまったのが残念なところである。
企業が総代をつとめる
現在まで、日泰寺はどの宗派にも属さない単立寺院であり続けている。運営は天台宗、浄土宗西山深草派、臨済宗妙心寺派、曹洞宗、真宗大谷派、法相宗など19宗派の管長が、3年交代の輪番住職制を取っている。現在は曹洞宗の江川辰三管長(総持寺系)が第34世住職をつとめている。
無宗派寺院なので、儀式は住職の所属宗派の法式に準じて行われる。しかし、なぜか曹洞宗の専門僧堂が日泰寺に置かれている。これは日泰寺を創建する際に、静岡県袋井市の曹洞宗寺院可睡斎から僧侶を派遣。分院を建てて当地の開墾と托鉢に精を出したことに起因する。
信徒総代会は地元経済界で構成されている。現在の総代は、東海銀行を前身のひとつとする三菱UFJ銀行、名古屋鉄道、中部電力、東邦ガス、J・フロントリテイリング(松坂屋)、興和、水野本社の経営トップである。これは本堂の建築の際に資金を拠出したことがきっかけである。
釈尊の近くで眠りたい、と墓や永代供養を求める人も少なくない。実は奉安塔に隣接する境内地は、一般人でも墓所として求めることができる。例えば過去帳に記して50年間の供養を続けてくれる永代経料は、25万円と相場に比べてかなりお手頃だ。なにより、釈尊の墓の隣で永遠の眠りにつけるということを、多くの日本人は知らない。
日泰寺のように「知られざる名刹」の縁起を紹介した拙著『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』を併せてご覧いただければ幸いである。