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懐かしのプリンス自動車の名車が鈴鹿を走行。日本車が世界に認められた道のりの原点。

辻野ヒロシモータースポーツ実況アナウンサー/ジャーナリスト
プリンス・R380 【写真:TypeS】

2016年11月19日(土)20日(日)に鈴鹿サーキット(三重県)で開催されたイベント「リシャール・ミル SUZUKA Sound of ENGINE 2016」で、1950年代のオートバイ、1970年代のF1、1980年代のレーシングスポーツカーなど数多くの名車が同サーキットをアクセル全開で走行した。クラシックレーシングカーを主体とした「動く博物館」とも言えるこのイベントは今年で2回目の開催。世代を超えたファンが懐かしいマシンの走りとエンジン音に酔いしれていた。

SUZUKA SOUND OF ENGINE【写真:MOBILITYLAND】
SUZUKA SOUND OF ENGINE【写真:MOBILITYLAND】

プリンスの名車が走行

グループCデモレース【写真:MOBILITYLAND】
グループCデモレース【写真:MOBILITYLAND】

今年の同イベントの目玉は「ジャガーXJR-9」や「マツダ787B」1980年代後半の「グループCカー」と呼ばれるレーシングスポーツカーによるレースの再現だった。トヨタ、日産、マツダといった国内の自動車メーカーがフランスのルマン24時間レースなどを舞台にポルシェやメルセデス、ジャガーなどと対決した時代のモンスターマシンの走行は迫力満点だったが、国内メーカーが海外メーカーと対峙できるようになる道のりの「原点」とも言えるマシンも走行した。今はなき「プリンス自動車工業」のマシンである。

「プリンス」、この自動車メーカーの名前を知らない人も多いだろう。それもそのはず、今年は「日産自動車」と「プリンス自動車工業」が合併して50周年の節目の年(1966年8月に合併)。現在は「日産プリンス」というディーラー名と「スカイライン」という車名が日産車に残るのみとなっている。そう、あのスカイラインは元々、プリンス自動車が作ってきた車なのだ。

プリンス自動車のルーツは戦後、GHQによって解体された航空機製造メーカーの「立川飛行機」である。軍用機を作ってきた技術者たちが戦後、自動車を作り始め、のちに名車「スカイライン」が誕生する。

語り継がれるスカイライン伝説

今から54年前の1962年、日本初の本格的サーキットとして「鈴鹿サーキット」が完成。翌63年に同サーキット初の四輪自動車レース「第1回日本グランプリ」が開催された。「日本グランプリ」と言ってもF1ではなく市販車が中心のレースで、トヨタ、日産、プリンスなど様々なメーカーがレースに出場。プリンスも「スカイライン・スポーツ」で参戦した。

スカイラインスポーツ
スカイラインスポーツ

この当時は多くの日本人がモータースポーツとは何たるかを知るはずもない黎明期で、自動車メーカー各社はこのレースに積極的に関与しないという紳士協定を結んでいた。しかし、レースに勝利するため密かにチューニングを施すメーカーが現れ、ノーマル車で挑んだプリンスはレースで他メーカーの後塵を浴び、惨敗する。

これが自動車メーカー間の競争に火をつけたのだ。プリンスは翌64年の「第2回日本グランプリ」に勝利すべく、スカイラインに高級車グロリアの直列6気筒エンジンを載せた「プリンス・スカイラインGT」を投入し、逆襲を図った。しかし、このレースに式場荘吉(しきば・そうきち)が「ポルシェ904」でプライベート参戦。純レーシングカーとも言える流線型のポルシェは4ドアツーリングカーのスカイラインGTを速さで圧倒した。

プリンス・スカイラインGT 【写真:TypeS】
プリンス・スカイラインGT 【写真:TypeS】

「ポルシェ904」vs「プリンス・スカイラインGT」という、全くジャンルの違うマシンによる対決ながら、一瞬だけ生沢徹(いくざわ・てつ)が駆るスカイラインGTがポルシェを抜いてトップに立つ。これを知った観客は興奮し、大きな歓声があがったという。後にこれは友人関係にあった式場と生沢の密約による順位の入れ替えだったと告白されているが、当時はそんなことは誰も知ることもなく、スカイラインの速さが口コミで広がり、その名前はやがて日本を代表するスポーツカーとして認識されるようになる。これが世に言う「スカイライン伝説」である。

スカイラインのライバルとなったポルシェ904
スカイラインのライバルとなったポルシェ904

プリンス最後の名車R380

翌1965年に「第3回日本グランプリ」が開催される予定だったが中止。1966年に新設された高速サーキット「富士スピードウェイ」に舞台を移し、「第3回日本グランプリ」が開催されることに。

第2回でもヨーロッパからの刺客ポルシェに敗れたプリンスは第3回に向けて純レーシングカーの「プリンス・R380」を準備する。宿敵ポルシェと同じ流線型のFRPカウルを被った「プリンス・R380」のフォルムはまさに地上の戦闘機そのもの。風洞実験も行ってデザインされたそのマシンには戦時中に飛行機を作ってきた技術者たちの魂が込められていた。

プリンス・R380【写真:MOBILITYLAND】
プリンス・R380【写真:MOBILITYLAND】
ポルシェ906(カレラ6)
ポルシェ906(カレラ6)

その第3回には新たなポルシェとしてプライベーターの滝進太郎(たき・しんたろう)率いる「TAKI RACING TEAM」が持ち込んだ「ポルシェ906」(通称カレラ6)が登場。決勝レースでは砂子義一(すなこ・よしかず)が駆る「プリンス・R380」を抜き、トップを奪う。しかし、360kmの長距離レースのために両車ピットイン給油が必要となり、ポリタンクから給油を行ったポルシェに対し、プリンスはピット上部のタンクから重力で一気にガソリンをマシンに流し込む給油装置を準備。ピット作業時間を大幅に短縮した「プリンス・R380」(砂子義一)が独走。1966年5月3日、プリンスは悲願の日本グランプリ優勝を成し遂げたのだ。

プリンス自動車が日産自動車に吸収合併されることは、この時すでに決定していた。合併を3ヶ月後に控えたプリンスの技術者たち、当時のワークスドライバーたちの意地が掴み取った栄冠だった。

R380が鈴鹿を初走行。12月は富士で。

小豆色に白いライン。流麗なプリンス最後の名車「プリンス・R380」が鈴鹿サーキットを走行した。ドライブしたのは66年当時、日産ワークスドライバーでこのマシンのライバルだった北野元(きたの・もと)。富士の「第3回日本グランプリ」で栄冠を掴んだ「プリンス・R380」が鈴鹿を走ることは実は今まで無かったことである。鈴鹿と富士の歴史を振り返れば、鈴鹿にとっては当時のメインイベントを失った年の「日本グランプリ」で優勝したマシンだけに、それもそのはず。「プリンス・日産合併50周年」を記念した走行ではあったが、鈴鹿サーキットは「プリンス・R380」を日本の四輪モータースポーツの重要な「原点」と位置づけ、このマシンを迎え入れた。奇跡的なシーンだったと言える。

のちのライバルトヨタ7との走行【写真:TypeS】
のちのライバルトヨタ7との走行【写真:TypeS】

このプリンスの名車「プリンス・R380」を見るチャンスはまだある。12月11日(日)に富士スピードウェイで開催されるニスモ主催のイベント「NISMO FESTIVAL 2016 supported by MOTUL」で再びデモ走行する予定だ。もちろん「プリンス・スカイラインGT」も走行する。めったに走る姿を見ることができない歴史的なマシンの勇姿は見逃せない。

スカイラインGT-R
スカイラインGT-R

50年前に合併で姿を消したプリンス自動車だが、第1回日本グランプリに負けた悔しさからスカイラインのスペシャルモデル「プリンス・スカイラインGT」を作り、これが後にサーキットの名車と神格化される「スカイラインGT-R」誕生へとつながっていく。そして、第2回でも負け、ありとあらゆる研究を重ねた末に誕生したプリンス最後の威信作「プリンス・R380」が外国車を相手に勝利した。これが本格的なモータースポーツに携わって僅か3年の企業の短い歩みである。勝つために学び、創意工夫を惜しまない精神、そしてレースを通じて高められた技術力は日産と統合後、同社のレーシングカー作りやスポーツカー作りの礎となっていった。

プリンス、日産歴代のレジェンドドライバーたちのトークショー
プリンス、日産歴代のレジェンドドライバーたちのトークショー

貴重なレーシングカーや今もイベントでステアリングを握る当時のドライバーたちの言葉は、その時代を知らない私たちに今、改めて問いかけているような気さえする。「負けて、それでいいのか?」と。

モータースポーツ実況アナウンサー/ジャーナリスト

鈴鹿市出身。エキゾーストノートを聞いて育つ。鈴鹿サーキットを中心に実況、ピットリポートを担当するアナウンサー。「J SPORTS」「BS日テレ」などレース中継でも実況を務める。2018年は2輪と4輪両方の「ル・マン24時間レース」に携わった。また、取材を通じ、F1から底辺レース、2輪、カートに至るまで幅広く精通する。またライター、ジャーナリストとしてF1バルセロナテスト、イギリスGP、マレーシアGPなどF1、インディカー、F3マカオGPなど海外取材歴も多数。

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