建材会社で事故死した89歳作業員は仕事に「生きがい」を感じていたのか
「死ぬまで働けたのは本懐」
先日、香川県にある建材会社の作業員がコンクリートミキサーの下敷きになって死亡した事故を報じるネット記事が流れてきた。
当該記事によると、今回死亡した作業員は、約80kgのコンクリートミキサーをトラックへ積み込もうとした際、その下敷きになった可能性があるとのことだった。
こうした労働現場における事故は、どのケースも痛ましいものばかりだ。
が、今回の事故においてより衝撃だったのは、この作業員の年齢が「89歳」だったことにある。
この89歳という年齢に対して、SNSには
「近所にも高齢で働いているガードマンがいる」
「ここまでしないと生きていけないのか、悲しすぎる」
「年金だけではとても足りない切実な問題」
「死ぬまで働き続ける未来。明日は我が身と思うとゾッとする」
と、「超高齢」でも働き続けなければならない現代社会の現状を嘆く意見が多く並んでいた。
しかしその一方、これらのコメントのなかには
「本人が働きたかっただけでは。元気なら働かせればいいじゃないか」
「その仕事が好きで職業に生きがいを感じて働いていたかもしれない」
「若い頃どうされていたのかに依るので自業自得の場合もあり得る」
「貯金しなかった自分が悪い」
と、89歳の現場労働を正当化したり、自身が生きてきた結果だとする「自己責任論」が多く紛れており、なかには「死ぬ日まで働けたのは男子の本懐(=本望)では。89歳まで働いて世の中に貢献したこの人は素晴らしい」と、超高齢者による労働や事故死を美談にするようなコメントまで見られるなど、様々な角度からの是非が飛び交った。
「人生100年時代」なる言葉を頻繁に耳にするようになり、高齢者が「働く」に生きがいを求めるようになった時代。
長時間労働・低賃金のなか、深刻な少子高齢化が進行するブルーカラーの労働現場。
「働きたい」と「働かざるを得ない」の線引きが曖昧にされていくなか、平均寿命を優に超えたこの高齢労働者は、本当に「生きがい」を感じて現場に出ていたのだろうか。
他人への関心が薄れゆく社会で、会ったこともない89歳の故人に「自己責任」と断罪する未来に何があるのだろうか。
そして「人生100年時代」において、人はいつまで働き働き続ける・働き続けられる・働き続けなければならないのだろうか。
「働けるうちはいつまでも働きたい」4割
厚生労働省の資料によると、令和5年の男性の平均寿命は81.1歳、女性は87.1歳。
また、健康面で日常に何の制限もなく生活できる「健康寿命」においては、令和元年で男性が72.7歳、女性は75.4歳となっている(内閣府資料)。
それに伴い、定年後も「働きたい」と思う人も年々増えてきている。
内閣府の資料だと、現在収入のある仕事をしている60歳以上の人のうち、約4割が「働けるうちはいつまでも働きたい」と回答したとのこと。
しかしこの“働きたい”とする理由は、なにも「仕事が好きだから」「生きがいを感じるから」に限らないはずだ。
実際、2018年の明治安田生活福祉研究所の調査では、「生きがい」よりも「日々の生計維持のため」と答えている人の割合のほうが高い。
つまり、“働きたい”という願望を示す言葉には「生きがいを感じたい」という正の理由以外に「働かないと生活できない」という負の理由が内在しているといえる。
「89歳」とは
こうして”働きたい”高齢者が増えるなか、国全体の人口減少に伴い多くの業種では人手不足が生じている。
特にブルーカラーの現場においてはどの業種も深刻な状況だ。
人口減少はもとより、過酷な労働環境や不安定な賃金などによりブルーカラーの現場には若手が入って来ず、1年中求人を出している企業も少なくない。
なかにはメーカーの事務職として働いてきた社員を定年後に自社工場のブルーカラー人材として再雇用するケースまである。
これにより現場で深刻化しているのが、「作業員の少子高齢化」だ。
今回事故のあった現場である「建材会社」も例外ではない。
参考に、同分野の建設業界における年齢階級別技能者数を見てみると、本来とうに定年を過ぎているはずの65歳以上の割合が25.7%とどの年齢層よりも多く、一方、20代以下の若手労働者は11.7%しかいない。
建材会社では、建築現場で使用する資材や工具などといった「重量物」「危険物」を多く取り扱う。
当然個人差はあれど、体力や集中力、反射神経においてはたとえ元気なベテラン作業員であっても高齢者が若手に勝ることはほぼない。
こと89歳という「超高齢」の労働者にとって、人手不足の現場・心身を酷使する現場が過酷にならないわけがない。
無論、ブルーカラーの現場は国の基幹産業であり、仕事で得られる達成感も大きい。しかし、こうした環境下で超高齢の89歳が本当に「生きがい」をもって働きたいと思っていただろうか。
ちなみに、この事故の記事から数日後、上皇后が誕生日を迎えられたとする記事が流れてきたが、上皇・上皇后も卒寿の90歳。
体力の衰え、老化の加減は当然千差万別ではあるが、たとえブルーカラーの現場でなくても、89歳の労働がいかに「特異」なものかが分かる。
ある建設会社の経営者もこう話す。
「89歳の作業員はかなりレアだと思います。労力としてもやはり劣ります。警備員は高齢の方もいますが、それでも80歳以上は滅多に聞きません」
働く年齢に上限規制はない
そもそも労働者は何歳まで働いていいようになっているのだろうか。
「労働安全衛生法」に中高年齢者への配慮義務があり、大手や業種によっては安全上の問題から独自に作業における年齢制限を設けているところはあるものの、法的には年齢の上限に制限はない。
むしろ年齢に関わりなく均等な機会を与えなければならないとして、募集時の年齢制限の禁止が義務化されている。
しかし、法律で制限がないからといって危険な現場に超高齢者を立たせていいはずがない。
「高齢者の労働」に対する是非は、運転免許のそれに似ている。
年齢制限がなければ、「運転が生きがいだ」という超高齢者に運転させていいのだろうか。
「自家用車以外の足(移動手段)がない」とする超高齢者ならば、自由にクルマを運転させていいのだろうか。
今回、「高齢者は仕事をやめると認知症が早まるから本人が望むうちは働かせた方がいい」と、労働を病気の予防策と捉える声もあったが、それが「病気の予防策」になるかは「業種」によってくるはずだ。
ある建築業界経験者はこう話す。
「建築現場は、不整地、不陸、段差などが存在し、作業上の移動すら危険なところだらけ。高齢者の場合、少しの段差でもつまずき骨折する恐れが高い。どんな業務であれ、89歳の作業員が建築現場の労働で得られるのは、賃金などのメリットよりも怪我などによるリスクのほうが極めて大きい」
そもそも、今回の高齢労働者がたとえ働くことを「生きがい」と感じていたとしても、同人が現場で亡くなったという事実がある以上、「超高齢でも元気ならば好きに働いていい」と、超高齢者の労働を正当化するのはあまりにも暴論だ。
その“生きがい”によって命を落とすことほど矛盾するものはないからだ。
「住み込み」という諸刃の剣
当然、彼が89歳まで働き続けた理由は元記事だけでは読み取れない。
が、ブルーカラーの現状からわずかな可能性があるものとして紹介しておきたいのが、「住み込み」という習慣だ。
ブルーカラーの求人には、「住み込み」「社宅」「寮・食事つき」などが目立つ。
様々な事情から住む家を自力で確保できない人にとって、この「住み込み」は生活を一気に安定させられるうえ、実勢の家賃相場よりもかなり安く住めるため人気が高い。
とりわけ建設業界では昔から住み込み労働の習慣が根強く、高度経済成長期においては日本各地から身ひとつで都会にやってくる多くの出稼ぎ労働者にとって欠かせない条件となっていた。
しかしこの「住み込み」はつまるところ、職を失うと住む場所をも失うことを意味する。
そこでトラブルになりやすいのが、定年を迎える労働者や高齢労働者だ。
定年を過ぎた人は安定した収入が見込まれないと判断されやすく、個人での賃貸契約が難しくなる。親族・家族がいない場合、賃金が不安定な場合などは、よりそのハードルは上がる。
そのため、なかには社員が定年になる数年前に、会社が本人を社宅から退去させ、早いうちに住宅契約させるようにしているところもあるが、やはりブルーカラーの現場には様々な事情を抱えてやってくる人も少なくなく、「他に行くあてが見つからない」と居座ってしまう(居座らざるを得ない)ケースもあるのだ。
当然、元々会社にいた人だけでなくシニアから採用する際でも同じことが言える。
多くの企業では住居に年齢や入居期間に制限を設けてはいるが、「高齢者でも人手がほしい会社」と「他に行くあてのない高齢者」の利害が一致した場合、高齢者が住み込みで働くケースも考えられる。
それ以外にもブルーカラーは、日雇いや日払いなどの制度が充実している。
つまり、肉体労働という過酷なブルーカラーの現場が、労働弱者のセーフティネットになっているという現実があるのだ。
弱者に冷たい弱者たち
冒頭で紹介した通り、今回のコメントには、「この人がどうやって生きてきたか分からないから擁護できない」という声も一定数あった。
このような人たちは、この89歳の労働者が「どう生きてきたか分からない」にもかかわらず、なぜ「擁護ができないような人生」を送ってきた前提で話を進めたがるのだろうか。
実はこうした労働弱者に対する厳しい声は、皮肉なことに、同じように生活に不安を抱えている労働弱者たちから聞こえてくることが少なくない。
実際、過酷な環境で働く人たちを取材していると、頻繁に聞こえてくる声がある。
「自分は必死にルールを守っているのに、守れなかった人を救済するのはズルい」
ブルーカラーの労働者には、ベテランほど過酷な労働に対して誇りを持ち、「体を酷使し汗をかくことこそ労働」と考える人が非常に多い。
生活保護受給者、特例を懇願する声、さらには肉体的にハンデのある女性ブルーカラーへの配慮に対しても同じ言葉を浴びせる人もいる。
しかし、彼らがそう感じてしまうのは至極当然のことだろう。
たとえ逆境の中でも人に迷惑をかけまいとがむしゃらに努力している一方で、楽にその場を乗り切ろうとする人を見れば、不平等を感じないわけがない。
しかしそんな人たちは、何らかの事情でルールを守れなかった人たちにこうして「自己責任だ」と突き放すことが、「ブーメラン」として彼らと環境の最も近い自分自身に最も高い確率で返ってくることになると気付いていない。
こうして我慢することが美徳になり、過酷な労働に耐えたことを誇るようになった先にあるのが、冒頭でも紹介した「死ぬ日まで働けたのは本懐」「世の中に貢献して素晴らしい」」という、「やりがい搾取」への道なのだ。
こんな国に誰がした
国の高齢労働者に対する取り組みは、毎度「高齢になっても生きがいのために働きたい人たち」であり、「働かざるを得ない人たち」への対策がまったくできていないように思う。
今回のケースは「超高齢者の従業員」だったが、ブルーカラーの現場には既述通り「非正規労働者」も非常に多い。
日本では小泉政権時代、大規模な規制緩和や経済成長対策が行われ、これによってニートやフリーター・派遣労働者を増大させ所得格差の広がる社会が構築された。
こうした人の中には、年金すら納める余裕がなかった人も少なくない。
総務省統計局の発表によると、現在、非正規の職員・従業員が多い年齢階級も男性では65歳以上(女性は45~54歳)。
年金もろくにもらえない人たちにとっては、高齢になっても働き続けるしか道がないのだ。
体力的に限界を迎えた高齢労働者のなかには、生きるために窃盗などの犯罪に手を染め、刑務所がセーフティネットになっているケースもある。
前出の「高齢者の足問題」では、自家用車という足から公共交通機関といった「新たな足」づくり、「足の必要のない地域づくり」がようやく議論され始めた。
それと同じように「高齢者の労働問題」においても、明日を生きられない労働者には、仕事の代わりとして盤石な「社会保障制度」で守っていく必要があるのではないだろうか。
人がたとえ過去に失敗を犯したとしても、その程度で亡くなるまで現場に立たなければ生きていけないような国に未来などやってこない。
※ブルーカラーの皆様へ
現在、お話を聞かせてくださる方、現場取材をさせてくださる方を随時募集しています。
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※件名に「情報提供」と入れていただけますと幸いです