羽生結弦「なるべく予算を少なくして寄付を」通常照明で演じた「春よ、来い」が伝えたチャリティーの精神
柔らかな上半身の流れと、ダイナミックな滑りを融合させ、祈りを込めて「春よ、来い」を演じる。羽生結弦さんは9月15日、「能登半島復興支援チャリティー演技会」に出演し、被災地へのエールを送った。幾度となく、復興への祈りを演じてきた羽生さんだが、いつもと違う点が2つあった。それが、今回のチャリティーへの深い思いを体現していた。
通常照明から伝わる、明確な技術と懸命な思い
いつもと違うこと。その1つは、照明だった。アイスショーのように暗闇でスポットライトを浴びるドラマティックな演出ではなく、通常照明の中での演技。その理由を、羽生さんはこう説明した。
「今回は『なるべく予算を少なく、ほとんどのお金をチャリティーとして寄付したい』ということがあり、規模を小さくするのが第一の目標でした。制作資金を削減していくにあたって、最終的に(アイスショーのような)照明はなし、ということになりました」
寄付額を少しでも増やしたい、という思いからの判断だったが、むしろ演技面での面白さもあった。
ショーのようにスポットライトを当てると、1つ1つのポーズは暗闇の中に綺麗に浮き上がるが、どこを滑っているのか、どれくらいのスピードで滑っているのかは見えにくい。通常照明であれば、周りの空間や氷の表面も見えるため、滑ったトレースや、ターンのカーブの方向まではっきりと見える。
もともとエキシビション曲として振り付けた「春よ、来い」は、ショー用のライティングで演じることが多い。細微な動きまでクリアーになることで、作品に新たな命が与えられていくような時間だった。
「通常照明にしたことで、それはそれで見え方が違って、いつも見ている方々も違った感覚で見ていただけたなら、嬉しいことです」
またこの日は、練習用の大きなサイズのリンク。アイスショーよりも奥行きのある空間に合わせて、演技のトレースも、すべての空間をくまなく使う構成に変更していた。ターンでグンと加速させ、伸びやかな滑りでフェンスの端から端まで一気に滑り抜ける。表現を届ける空間も、天井や壁までの大きな空気を動かしているのが、明確に伝わってきた。
いつもより大きなトレースで滑るには、圧倒的なスケーティング力と体力が必要になる。この曲をどれほど真剣に練習してきたのか、懸命に演じてきたのかが、1つ1つの技術からにじみ出ていた。
「この場所から何か波動として動いて、皆さんの元に届け、という気持ち」
そして、もう1つの違いは、心の中。
「やっぱりチャリティーということで、演技への気持ちは全然違いましたし、プログラムに込める思い達も、より明確に能登地方の方々への気持ちで滑ることができました」
羽生さんは思いを込めるにあたって、あえて被災地に近い石川県内のリンクを選んだ。
「今回、配信という形を取った時に、他の地域で滑るということも可能でした。ただ、僕はなるべく、辛かった方々、今現在辛いと思っている方々、悩んでいる方々の近くで滑りたい。その地域の力みたいなもの、空気みたいなものを、すごく感じながら滑るので…。この場所から何か波動として動いて、皆さんの元に届けって思いながら滑らせていただきました」
その波動は、見せ場の1つであるハイドロブレーディングからも伝わってきた。両手と足を氷に吸い付けるようにゆったりと滑り、髪の毛に白い氷が絡みついていく。氷と羽生さんが一体になっていく様子に、思わず、地元新聞の記者が「いつも以上に地面に上半身をつけていらっしゃったように見えた」と尋ねた。すると羽生さんが照れたように微笑み、返す。
「あれはハイドロブレーディングという技なのですが、このプログラムではあのぐらい付けるものなのです。でも、この地方に大きな被害があった、ここの周辺の地面が大きく揺れたということもあって『静まって欲しいな』という気持ちがありました」
「春よ、来い」は、北海道胆振東部地震への復興の願いを込めたショーや、「東日本大震災から10年」のショーで演じるたびに、思いを込めてきた曲。この日は能登地方への祈りを、石川の地を感じとることで、氷を通して伝えた。
寄付だけでなく、能登地方を忘れないための時間に
チャリティー演技会はオンライン配信され、9月15日の当日には県内4箇所でパブリックビューイングが行われたほか、9月末までは見逃し配信がある。13日までに1万人以上が有料配信に申し込み、特製Tシャツは5000枚が完売。最終的な収益は、テレビ金沢を通じて石川県に寄付される。
ただ、羽生さんの考えるチャリティーというのは、金額的なことだけではない。それは、東日本大震災を経験した羽生さんだからこそ分かる、現地と、それ以外の地域の温度差だろう。復興が進まない中、現実と向き合い続ける現地の人々。一方で、報道が減るにつれて全国的な関心は薄まっていく。羽生さんは、今年6月に輪島市を訪問し、肌で感じるものがあった。
「実際に生で見た時の『こんなにも、このまま残ってしまっているんだ』という生々しさみたいなものに、とても衝撃を受けました」
そして「僕が(復興が)進んでいる、進んでいないに関して深いコメントを言えるわけではないんですけれども」と前置きしながら、
「地元の方々の時が止まっているというか、いまだに『そこに行くたびに思い返してしまう』ということを仰っていて、すごく胸に刺さるものがありました」
そう感じたからこそ、被災地訪問のあと、チャリティー演技会を決断した。
「首都圏から離れているからこそなかなか報じられることもなく、復興も進みにくい場所。交通にも制限があり、復興が大変なのだろうと、実際に足を運んだ時に思いました。(世間の関心の)風化に対して僕らが何かすることは難しいのですが、今回配信のチケットを買ってくださった方々も、お金も、注目も、ちょっとでも力になればいいなと思いました」
チャリティー演技会を行えば、有料配信を見た人はもちろん、ニュースになることで世間の関心を戻すことができる。一人でも多くの人が能登地方へ思いを馳せる時間になれば。そんな思いが、羽生さんの心の中にあった。
無良さん、鈴木さん、宮原さんが伝えた、活力、希望、未来
このショーで、思いを伝えたのは羽生さんだけではない。約1時間にわたる配信では、現地の和太鼓グループ『虎之介』による演奏、能登高校書道部による実演に続き、無良崇人さん、鈴木明子さん、宮原知子さんも滑りを披露した。
無良さんが選んだ曲は『燦々』。高さのある3回転ジャンプや雄大なイーグルから、力強く進んでいこうというメッセージが伝わってきた。
「『燦々』の歌詞にもある『大丈夫だよ』というメッセージを、配信見ていただいた方や被災された方に伝えられたらいいなと思います。明日に向かっていく、次に進んでいく活力になってもらえたら」
また鈴木さんは『愛の讃歌』を披露。美しいスピンやダブルアクセルを織り交ぜた多彩な演技で魅了した。この曲は2014年ソチ五輪でも演じ、自分のスケート人生を歌い上げた、思い入れのあるプログラム。それを選んだ理由をこう話す。
「選手生活で苦しかったことはたくさんありましたが、そのたびに手を差し伸べてくださる人たちがいたからこそ頑張ることができました。その受け取ったものを誰かに渡したい、希望の光となってみなさんに伝わったら良いな、と思っています。こうした震災が起きるたびに自分の無力さを感じますが、私たちが滑ることによって何かを伝えられるのではないかという気持ちを胸に、今日は一生懸命滑りました」
さらに宮原さんはプロ転向後に作った賛美歌『スターバト・マーテル』を演じ、スパイラルやなめらかな滑りを通して、祈りを捧げた。
「自分のスケートを通して、人々への助けができたら嬉しいなと思って滑りました。今回のプログラムは『自分の進む道を見つめて、未来へ向かって光を見つめる』というテーマです。少しでもあたたかい気持ち、前向きな気持ちが、皆さんに伝わっていれば嬉しいです」
エンディングは、Mrs. GREEN APPLEの『ケセラセラ』で4人が共演。
「この曲自体が持っている『どんなことがあっても、自分に言い聞かせながら前を向いていくんだ』っていう気持ちを、鈴木明子さんが振り付けをしてくださって、表現したつもりです。この楽曲の、ボーカルも、一つ一つの音もすごく大切にしながら、希望を胸に滑ったな、という感じがしています」
と羽生さん。最後にこうメッセージを送った。
「まだ辛い方も、今元気だよっていう方も、本当に様々な立場の方々がいらっしゃると思います。そんな方々の中で少しでも笑顔の輪が広がってくれたらいいなと思いながら滑りました」
演技の配信は9月末まで。