【御殿場市】城入口?! その先には幾度となく合戦に巻き込まれた国境の城『深澤城趾』があった
県道78号御殿場大井線のある小山高校線のバス停『城入口』。
その横には『静岡県指定史跡深澤城趾入口』と旧字体で表示された石碑が立っています。
「この辺に城があるのか?」と辺りを見渡しても、城らしいものは見当たりません。
今回は、気になっていた御殿場市深沢にある深澤城趾を訪れてみました。
バス停から直進すると、高く積まれた石積みの上に『深澤城趾』と記された石碑が堂々と置かれています。
その横には平成2年2月に設置された『静岡県指定史跡深沢城跡』と書かれた看板がありました。看板には史跡の歴史、地図、注意事項などが記されていました。
地理的に相模、甲斐、駿河を結ぶ交通の要衝に位置。抜川と馬伏川の合流点にあり、断崖に囲まれた自然の要害を利用して築城されたと推測できます。
時は戦国時代。
元は深沢氏の城館でしたが、16世紀初頭に相模との国境警備と、足柄街道の抑えとして今川氏によって築かれます。
その後、北条氏康・氏政父子が攻略し占拠、北条綱成を城主として配置しました。
同年末には武田信玄が大軍を率いて包囲、翌年の1571年に武田氏は深澤城へ矢文を送って開城を迫り、北条綱成は深沢城を退去し、深沢城はふたたび武田家の支配下となりました。
1582年に2月に武田没落となり、深沢城は駿河を制した徳川家の支配下となりました。徳川家の所領になると、深沢城は北条氏への備えとして再建されました。1590年に北条氏が滅亡すると深沢城は自焼没落しました。
看板の地図を見ると北側から本丸と二の丸、三の丸を一直線に並べた縄張の連郭式です。各郭は空堀によって区切られ、郭と郭は土橋でつながっています。山の尾根に築く山城や平山城に多く採用される縄張の形です。
大部分は個人所有の農地や宅地となっているため、行けるところまで、歩いてみることにしました。
説明看板から右へ進むと最初にあるのが『三日月掘』です。
『三日月堀』とは、城館の正面玄関を三日月状に丸く覆うような形をした堀で、武田特有の築城法といわれています。
少し右に行くと、『馬出し』があります。
騎馬兵が出撃すのをイメージしますが、堀のに囲まれた小さな曲輪のことです。
馬出があることで敵はまっすぐ城の入口に攻め込むことができず、馬出に兵を待機させておけば、攻撃することもできます。
馬出しの奥には『詩碑』があります。
大きな碑は乃木大将が深澤城での武田氏と北条氏の戦いを謳ったもの、小さい方は昭和33年御殿場市文化財調査委員会が農地改造で地形を変更する際に調査した時のもののようですが、旧字体と石の風化で何が書かれているのか読み解くことはできませんでした。
さらに北へ進むと下馬溜があります。
馬出しと同じ形状ですが『下馬溜』と名付けられているのは、馬小屋でもあったのでしょうか、それとも馬を降りて用を足す厠だったのかもしれません。
三の丸の右側を過ぎて『二の丸入口』に着ました。
二の丸を時計回りで進むと『二鶴様式の堀跡』があります。
堀の形が2羽の鶴がくちばしで繋がっているように見えることから『二鶴様式』と名付けられているそうです。
二の丸付近で馬伏川と抜川の間が狭まり城域の西・北・東側は自然の川が水堀になります。『二鶴様式の堀』は三の丸が落とされた後でも本丸と二の丸を守る防御のための堀だと推測できます。
堀の上を歩いている感じで進んでいくと、『食糧庫跡』があります。
その先に見えた曲輪した二の丸には、稲が青々と育っていました。
本丸方面は草木が生い茂り徒歩で行くのはちょっと勇気が足りず、今回はここで引き返しました。
帰り際、三の丸の中央辺りにある『八幡宮』に立ち寄りました。
八幡宮は、武運長久のご利益があるとも言われているので、この場所で数々の戦いを見て来たのかもしれません。
今回私が巡ったのは三の丸の三日月堀から二の丸までです。
稲刈りが終わった頃だともっと地形が見やすいそうなので、本丸までの散策を改めて行いたいと思います。
また深沢城から南に1キロほどの場所に位置する『大雲院』には深沢城の城門を移築したと伝わる山門があります。
大正12年の関東大震災で倒壊しましたが、昭和23年に復元再建されたとの事なので、こちらも興味をそそられます。
見どころ沢山の深澤城趾は、歴史好きにはたまらない場所です。
暑すぎるこの頃、深澤城趾で戦国時代にタイムトリープしてみるのも良さそうです。
深澤城趾:御殿場市大堰160
*近くに駐車場はありませんでしたので、公共機関を利用するのをオススメします。