英スパイ小説の作家ル・カレが『裏切りのサーカス』に込めた思いとは
昨年12月12日、数々のスパイ小説で知られる英作家ジョン・ル・カレがこの世を去った。享年89歳。
『寒い国から帰ったスパイ』(1963年)や『ティンカー、テイラー、ソルジャー、スパイ』(1974年)、そして複数の作品に登場する英情報機関の幹部ジョージ・スマイリーを連想する方も多いだろう。映画化された小説も少なくない。
『ティンカー・・』も英国の名優が勢ぞろいした感がある映画(2011年、邦題は『裏切りのサーカス』アマゾンビデオ)になっている。
ル・カレは冷戦を舞台にした「東」と「西」の情報機関の戦いをドラマチックに描く作品を次々とこの世に出した。
本名をばらされて
ル・カレの本名はデービッド・コーンウェル。実に普通の名前である。1931年イングランド地方南部ドーセットで生まれ、私立の名門校シャーボーンで学んだが厳格な校則を嫌って卒業前に国外に出た。
スイスのベルン大学で外国語を学び、1950年、ウィーンに置かれた英軍諜報部隊の一員となって東欧圏からのスパイの通訳に。英国に戻ってからはオックスフォード大学に在学しながら国内の治安維持を目的とする情報機関「MI5」(軍事情報部第5課の略、現在の保安局=SS)のためにソ連の工作員についての情報を集めた。MI5の下級職員となったのち、1960年、今度は国外の秘密情報の収集、工作を担当する「MI6」(秘密情報部=SIS)に移動した。
ル・カレがそれまでの経験を生かしてデビュー作『死者にかかってきた電話』を出版した1961年は、東西ドイツを隔てる「ベルリンの壁」が建設された年でもある。冷戦の真っただ中に実名でスパイ小説を出版するわけにはいかず、書き手が英国人とは思われないよう「ル・カレ」という名前を発案した。
ル・カレがコーンウェルであることを暴露したのは、元MI6の幹部でソ連の二重スパイ、キム・フィルビーだったと言われている(2008年のBBCのインタビューでは、フィルビーについては言及せず、米国の情報機関の間では公然の秘密だったと説明している)。1964年、ル・カレはMI6を辞任し、フルタイムの作家となった。
東西の冷戦は1980年代末から90年代にかけて終結していく。ル・カレは冷戦以外のトピックもテーマとして取り上げ(映画化された、製薬会社の欺瞞を描いた『ナイロビの蜂』、2001年など)、時代の変化に合わせて作品を書いた。
息が詰まるほどの迫力、『ナイト・マネジャー』
ル・カレの小説の映像作品の中で、今筆者がお勧めしたいのは『ナイト・マネジャー』(BBC)だ。1993年の出版時にはそれほど大きなヒットにならなかったものの、じわじわと読者を広げた。これを英BBCが取り上げ、2016年にテレビドラマ化した。英国以外でもアマゾンビデオで視聴可能だ。
今作のテーマは違法な武器取引の国際的なネットワーク。これを牛耳る武器業者をMI6の担当官とともに一網打尽に叩きのめすため元英軍兵士が活躍する。小説の題名は元兵士がエジプト・カイロのホテルの夜間支配人(ナイト・マネジャー)だったことに由来する。
配役陣が素晴らしい。悪徳業者には、近年は米人気ドラマ『Dr. House』(2004-12年)の主人公として知られるが、英国ではコメディ俳優として一世を風靡したヒュー・ローリー。日本でいえば北野武あるいは片岡鶴太郎が悪役を演じた感じといえようか。
彼を執拗に追いかけるMI6の担当官はオリビア・コールマンが演じる。映画『女王陛下のお気に入り』(2018年)で米アカデミー女優賞を受賞する前で、彼女自身もコメディドラマに多数出演した経験を持つ。『ナイト・マネジャー』では妊婦として登場。コールマン自身が妊娠していたからなのだが、「MI6担当官」のイメージにはそぐわないのが逆にリアルだ。
最終回で二人が対決する場面では緊張感を保ちつつも、コメディ俳優二人の顔が揃い、どことなくおかしみも誘ってしまう。
主人公の元兵士役は演劇界で修業を積んだ若手トム・ヒドルストン。武器業者の右腕で憎たらしい役を演じるのが名優トム・ホランダー。俳優同士の絶妙なハーモニーがたまらない。
度肝を抜くのが国際武器ビジネスの実態だ。販売する武器の威力を見せるための実演に背筋の寒い思いがするのは筆者だけではないだろう。主人公は武器業者の下で働きながら、MI6に情報を流す。いつばれるかとハラハラドキドキである。ル・カレもカメオ出演で姿を見せる。
個人的に残念なのは禁欲的でアルコールも飲まない主人公が美しい女性にいとも簡単にふらっとなってしまうこと。それで墓穴を掘ってしまう。そして、ヒドルストンがお尻を見せるセックスシーン。これが話題となってファンが増えたが、最近のBBCのドラマを見ていると「本当に必要なの?」と思わせるようなセックスの場面があってがっかりする。暗示だけで分かるし、せっかくの名演技や手に汗握るストーリー展開から注意がそがれる感じがしてしまう。
ル・カレ作品の大ファンというBBCのフランク・ガードナー記者は、一連の作品のどこまでが本当だったのかについてMI6の元職員らに聞いている(英雑誌「ラジオ・タイムズ」、1月9-15日号)。
「冷戦当時の状況をよく伝えている」と一人。もう一人は「現実を反映していたかどうか?その点については同意も否定もできない」と答えたという。
インタビューで見せた、その素顔
ル・カレは生前、いくつかのメディア取材に応じている。
追悼としてBBCが放送した番組の一つが、批評家マーク・ローソンによるインタビューである(2008年)。その生い立ちから情報機関で働くまでの経緯、作家になった理由、どのようにして小説を書くのかなど、幅広い質問に答えている。
この中で、筆者が印象深かったのが、ル・カレは徹底的にエスタブリッシュメント(支配層)や権力を嫌っていたこと(情報機関にいたときは自分自身がエスタブリッシュメントの一部になっていたわけだが)だ。規則に縛られるのも嫌い、それで英国の学校から逃げ、スイスの学校に向かったのである。
また、父親は愛情を示すタイプではなく、家を出た母親を十分に知らないままに成長したこと。女性とまともに話す機会がないままに大人になったこと。外国語能力にたけ、現在のロシア大統領プーチンの真似が非常にうまいことも分かった。
そして、情報機関で何をしていたのか、具体的な話を一切しないようにしていることも。元々、国家公務員は機密を守る義務があるが、ル・カレがそうしているのは「倫理的な信条による」という。
このインタビュー視聴後に映画『裏切りのサーカス』を見ると、主人公のジョージ・スマイリーが追う「裏切者」がソ連の二重スパイだったキム・フィルビーをモデルにしていることが実感できる。ル・カレからすると、フィルビーは国を裏切った典型的な人物で、彼の怒りが伝わってくるようだった。
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