当たり前の日常を取り戻すんだ 水木一郎、クミコ、ルイフロ出演「女川町復幸祭2016」レポート(後編)
(『当たり前の日常を取り戻すんだ 水木一郎、クミコ、ルイフロ出演「女川町復幸祭2016」レポート(前編)』から続く)
女川さいがいエフエムの最後の1曲
桑田佳祐は、「勝手にシンドバッド」「恋人も濡れる街角」「いとしのエリー」「風の詩を聴かせて」「紅とんぼ」「明日へのマーチ」「祭りのあと」「明日晴れるかな」を歌った。
なかでも「紅とんぼ」はちあきなおみのカヴァーだ。新宿駅裏の店の閉店を歌った「紅とんぼ」は、放送を終える女川さいがいエフエムに捧げたものだった。「紅とんぼ」には「五年ありがとう」という歌詞が出てくるのだ。
翌日以降も女川町の人々は忙しそうだった。2016年3月27日には、「ケロロ軍曹」のケロロ小隊が「再侵略」として女川町に登場。
そして2016年3月27日17時、女川さいがいエフエムは生放送を終了した。スタジオの外でも「がんばっぺ!」という声が起こっていたことをTwitterで知った。
2016年3月28日の阿部真奈さんのツイートには少なからぬ衝撃を受けた。彼女は、東日本大震災で祖父、母、姪を失っている。それでも、人はここまで凛として前向きでいられるものなのか、と敬意を抱いた。
そして2016年3月29日正午、女川さいがいエフエムは閉局した。iPhoneのアプリ・ListenRadio経由で聞いていると、須田義明町長による閉局の挨拶があった。そして、5年の歴史を終える女川さいがいエフエムの最後の1曲は、サザンオールスターズの「TSUNAMI」だったのだ。
正午とともに女川さいがいエフエムは停波した。その瞬間、私にはノイズとスタジオの談笑が混線したかのように混ざって聞こえた。
女川さいがいエフエム - 2016年3月29日女川さいがいFM「閉局放送」
2012年9月23日に「おながわ秋刀魚収獲祭」で初めて女川町を訪れて以降、たまに女川さいがいエフエムを聞いていたが、地元のバンドによる陽気な音楽が流された後に、そのメンバーが津波で亡くなったことが告げらることもあった。死は身近なものであり、そこに女川町のリアルを感じさせられることも度々あった。
閉局の挨拶で須田義明町長は、行政として2011年内に放送を終わらせる判断もあったと語っていたが、女川さいがいエフエムは、関東に暮らし、半年に一度女川町へ行く私のような人間に、女川町の現実を教えてくれるものだった。女川さいがいエフエムに関わったすべての人々に深く感謝したい。
なお、「TSUNAMI」に関しては、2016年3月30日に改めて女川さいがいエフエムのTwitterアカウントから以下のようなメッセージが出ていることに留意したい。私たちは簡単に美談を欲してはならない。
須田義明町長はブログに以下のように記している。
「onagawafm」プロジェクトのスタート
同じく2016年3月30日には、蒲鉾本舗高政 女川本店万石の里やシーパルピア女川を、ももいろクローバーZの有安杏果と高城れにが訪れている。「女川町復幸祭」、女川さいがいエフエムの閉局、そして相次ぐ来客と、蒲鉾本舗高政の高橋正樹さんはいつ寝ているのかと心配になるほどの日々だった。
女川さいがいエフエムの次の展開は早かった。今後新たに「onagawafm」プロジェクトを立ち上げ、ラジオ、SNS、動画生放送サイトでのライヴ番組などで活動していくと発表している。
79.3MHz 女川さいがいエフエムは オナガワエフエム として、生まれ変わります
ラジオでは、女川さいがいエフエムの「おながわなう。」と「佐藤敏郎の大人のたまり場」の2番組の内容と出演者を引き継いだ「OnagawaNow 佐藤敏郎の大人のたまり場」の放送が東北放送TBCラジオで2016年4月3日からスタートしている。また、女川さいがいエフエムの阿部真奈さんも、パーソナリティを務める番組「しぶやなう。」を渋谷コミュニティFM 「渋谷のラジオ」 で2016年4月2日からスタートさせている。
熊本地震と女川さいがいエフエム
そして2016年4月14日以降、熊本地震が発生していく。女川さいがいエフエムのTwitterアカウントが、緊急災害時に必要な情報を極めて冷静にツイートしていく姿勢は、困難な状況を町の人々と乗り越えた放送局だからこそのものだと感じた。
熊本地震の発生によって、今回の「女川町復幸祭2016」の記事をいつ公開するかも私は悩んだ。しかし、女川さいがいエフエムのTwitterアカウントは次第に通常の活動に戻り、再び女川町の日常を伝えていった。その中には、女川町での熊本地震への募金活動も含まれていた。
女川さいがいエフエムに関わってきた作家の浅生鴨(彼はかつてNHK広報局のTwitterアカウント『@NHK_PR』で『1号』を担当していた人だ)の2016年4月17日の言葉を、今もどかしく感じている人たちに伝えたい。私のような人たちに。
女川町に関わる人々が教えてくれたこと
2016年4月21日13時過ぎ、女川さいがいエフエムは5周年を迎えた。ListenRadioには女川さいがいエフエムのチャンネルが残っており、13時過ぎに聞いてみると、ネットラジオ局として配信をしていた。女川さいがいエフエムがさまざまな形で残り続けていくことを感じた瞬間だった。
もちろん、臨時災害放送局など開設する必要がない状況が一番良いはずだ。昨年、女川さいがいエフエムの閉局が発表されたときには名残惜しく感じたが、それは私の感傷に過ぎない。
読売新聞(YOMIURI ONLINE) - 「女川さいがいFM」の軌跡と3月で閉局する理由
臨時災害放送局の閉局によって、女川町の人々は東日本大震災前の日常性を取り戻そうとしている。コミュニティとしての「onagawafm」プロジェクトを残しながら。女川さいがいエフエムに関わってきた人々は、それぞれの知見から、熊本地震への私たちの関わり方についてヒントを与えてくれるだろう。
そして、熊本地震で被災した人々はもちろんのこと、私たちはまだまだ東北の人々を忘れてはならない。家を失くして仮設住宅に住む人々のことを。家族や友人を亡くした人々のことを。町の復興に尽力する人々のことを。たとえ東京オリンピックの狂騒が近づいてきたとしても。
東日本大震災発生から5年を経た2016年の3月から、熊本地震が発生した4月にかけて、そんなことばかりを考えている。この日々はまだまだ続くことだろう。ならば、長期戦と向かい合う覚悟をしたい。それはすべて、女川町に関わる人々が教えてくれたことなのだ。