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「優等生が東南アジア最悪の感染国に」と報じられたシンガポールをどう評価するか

木村正人在英国際ジャーナリスト
シンガポールの移民労働者寮の前に設けられた医療従事者用のテント(写真:ロイター/アフロ)

シンガポールにも「欧州株」の第二波

[ロンドン発]シンガポール政府は新型コロナウイルス対策の外出規制(サーキット・ブレーカー)を5月5日から徐々に緩和し始めました。シンガポールの感染者は2万1000人を超えていますが、死者はわずか20人。人口100万人当たりの死者は3人と日本の4人を下回っています。

大量死で“焦土”と化した欧米諸国に比べアジア諸国は死者の割合が二桁異なります。2002~03年にSARS(重症急性呼吸器症候群)の洗礼を受けたシンガポールは感染症対策が進んでいます。人口100万人当たりのPCR検査実施件数も3万件超と日本の1500件余を圧倒的に上回っています。

しかし日本の民放テレビは「『優等生』のハズが東南アジア最悪感染国に」「出稼ぎ外国人労働者へのケア不足」と報じました。何が起きているのでしょう。報道は果たして本当なのでしょうか。

大阪大学核物理研究センター長の中野貴志教授は、1から「1週間前の総感染者数を当日の総感染者数で割った値」を引く数式(K値)を提案しています。この数式では感染が収束すると0になります。Our World in Dataのデータをもとにシンガポールの感染状況をグラフにしてみました。

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シンガポールでも新型コロナウイルスの感染はいったん収まったものの再び拡大、しかしその後、急速に収束に向かっています。シンガポールで最初に流行したのは中国湖北省武漢市を基点とする「武漢株」。3月中旬以降、日本と同様、欧州で流行した「欧州株」が上陸しました。

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中野教授が「日本のK値の分布に誤りがあるようです」とエクセルシートを送ってきて下さいました。中野教授のグラフからは日本も収束に近づいていることが一目瞭然です。(5月10日追記)

中野教授本人が作成してくださったグラフ
中野教授本人が作成してくださったグラフ

外出規制下のシンガポールの生活

シンガポールは権威主義的な開発独裁で急成長を遂げた国。英誌エコノミストの調査部門エコノミスト・インテリジェンス・ユニットの民主主義指標によると、日本24位(総合スコア7.99)、シンガポール75位(同6.02)と国のかたちは違います。

日本は、賢人政治型のシンガポールに比べて一つのことを決めるのになにかと時間がかかります。しかしシンガポールは日本の出口戦略を考える上で参考になります。シンガポールで起業する保坂美智子さんに現地で「サーキット・ブレーカー」と呼ばれる外出規制の状況を報告してもらいました。

保坂さん「午前4時の誰もいないスーパー。どうしてもスーパーに行かなくてはいけない時は、誰もいない時間帯を狙って朝3~5時の間に買い物に行きます」

保坂さん提供
保坂さん提供

「入口のQRコードをスマホでスキャンしてモールに入ります」

同

「外出規制中でも物流が止まらず、日本からの美味しい刺身も楽しんでいます」

同

「毎日パンを焼いています」

同

「毎日3回の定期オンライントレーニングにパーソナルトレーニングを追加して筋肉トレーニングやストレッチをしています。免疫力を向上するため腸活セミナーも受講して、息子と一緒に参加することもあります」

同

「心身ともにヘルシーでいられるように、オンライントレーニングだけでなく、許可されたエクササイズで外の空気を吸うため外出しています。ブキティマ自然保護区に近いので誰にも会うことなく散歩を楽しめます」

同

「わが家のヘルパーさんの誕生日。ケーキ屋さんが営業停止だったので、簡単なケーキでお祝いしました。外出規制中は同居するヘルパーさんとも互いに思いやりが必要です」

同

「最後はオンライン飲み会。毎晩のように友だちとオンラインで集まっています」

同

次にシンガポールのコロナ対策を見ておきましょう。

【シンガポールのコロナ対策】

1月2日、武漢市からチャンギ国際空港に到着した乗客の検温を保健省が指示

1月20日、中国からチャンギ国際空港に到着した乗客全員の検温を実施。2週間以内に武漢市に渡航した肺炎患者を病院で隔離

1月22日、検疫を中国からの渡航者で症状のある人に拡大。武漢市への不要不急の渡航禁止、数日後に対象地域を武漢市から湖北省に拡大

1月23日、初の陽性患者確認

2月1日、過去2週間に中国への渡航歴がある場合、国籍を問わず入国停止

2月4日、「国内感染を確認」と報道

2月18日、2020年度政府予算案で総額64億シンガポール・ドル(約4800億円)の経済支援パッケージを発表

3月1日、日本人男性(54)が初感染

3月4日、過去2週間に感染国のイラン、イタリア北部、韓国に渡航した人について国籍を問わず入国停止

3月10日、マレーシアやタイで入港を拒否されたイタリアのクルーズ船「コスタ・フォーチュナ」の乗客600人の下船認め、世界保健機関(WHO)に称賛される

3月16日、日本や東南アジアなどを2週間以内に訪れた渡航者に対し入国後の2週間、外出禁止。シンガポール人に30日間、不要不急の海外渡航を控えるよう求める

3月20日、海外渡航中の感染者が激増したため、入国後14日間の自宅隔離

・ブルートゥース技術を利用して感染者との濃厚接触を追跡できるスマホアプリ「トレース・トゥゲザー」を導入

3月21日、心臓の持病を持つシンガポール人女性(75)とインドネシア人男性(64)が死亡。国内初の死者

3月23日、医療などに従事する人を除く外国人の入国を禁止。シンガポール人と永住権所持者は入国できるが2週間外出禁止

3月26日、全てのバーやナイトクラブ、ディスコ、映画館、カラオケ店などの娯楽施設を閉鎖(日本で言う“3密”対策)。学習塾は停止、宗教的な集会も禁止。結婚式や誕生会など個人的な集まりは10人以下に制限

・補正予算で総額484億シンガポール・ドル(約3兆6400億円)の一般世帯・法人向け経済支援パッケージ発表

3月31日、中銀に相当するシンガポール通貨金融庁が中小企業や個人の資金繰り支援パッケージ発表

4月6日、補正予算で総額51億シンガポール・ドル(約3800億円)規模の一般世帯・法人向け経済支援パッケージ第3弾を発表

4月7日、5月4日までサーキット・ブレーカー発動。職場や店舗の大多数を閉鎖。食料の買い出しなどを除く外出は原則禁止(安倍晋三首相も同じ4月7日、首都圏や大阪、兵庫、福岡の7都府県を対象に国家緊急事態宣言。16日に全国に拡大)

・法人・個人支援のコロナ臨時対策法が成立

4月14日、外出時のマスク着用を義務付け

4月20日、建設分野の低熟練外国人労働者向け就労パス「ワーク・パミット」と中熟練向け「Sパス」の保持者とその帯同者に自宅隔離を適用。対象者は約18万人

4月21日、リー・シェンロン首相が外出規制や職場閉鎖(サーキット・ブレーカー)を6月1日まで延長すると発表(安倍首相は5月4日、国家緊急事態宣言を同月31日まで延長)

移民労働者寮でクラスター発生

シンガポールと日本の対策の時間軸は軌を一にしています。

新型コロナウイルスの「武漢株」と「欧州株」はスパイクタンパク質に変異があり、感染力が異なると主張する論文と「武漢株」と「欧州株」は同じという論文が対立しています。今のところ感染状況に影響を与えていると考えられるのは次の7つです。

(1)ウイルスの変異(欧州株の方が武漢株より感染力が強いという説)

(2)宿主の免疫力(自然免疫や人種、BCGの接種などによって差があるという説)

(3)気候(高温多湿になればエアロゾル感染が減るという説)

(4)公衆衛生的介入(都市封鎖、社会的距離、休校、マスク)

(5)住環境(住居の人口密度が高くなれば感染者が増える)

(6)外国からの流入

(7)医療へのアクセス

日本の場合、ウイルスを取り巻く環境が緩和されたわけではないのに再流行を許したのは、感染力の強い可能性がある「欧州株」が入ってきたからと見るのが妥当でしょう。また「欧州株」のステルス感染が広がり、感染経路が追えなくなったためかもしれません。

シンガポールの場合は「欧州株」流入と低熟練外国人労働者の悪い住環境が大きなインパクトを持ちました。

シンガポールで5月3日までに確認された感染者1万8205人のうち1万6402 人が低熟練外国人労働者。同月7日の新規感染者741人中734人が低熟練外国人労働者です。問題はこうした移民労働者が暮らす寮でクラスター(感染者の集団)を発生させてしまったことです。

移民労働者の寮は1部屋に12~20床の2段ベッドがあるため、外出規制と感染拡大で「監獄暮らし」(英紙ガーディアン)と非難されています。しかし保坂さんは「近隣諸国に比べ、シンガポールの環境は一番良い」と言います。

「寮での感染連鎖を断ち切るには時間がかかる」

フェイスブックの投稿で、リー首相は「寮での感染の連鎖を断ち切るには時間がかかる。幸いにも移民労働者は若いので、症例の大部分は軽症だ」と書いています。軽症者でもPCR検査を受けられ、陽性であれば施設に収容、症状が進めば病院に移されます。

このため1日当たりの死者は0~2人の間で推移。裕福なシンガポール人と移民労働者の間に大きな格差が存在するのは事実です。しかし保坂さんは「シンガポールは移民労働者なしには成り立ちません。だから低熟練外国人労働者も差別せずに全面的に支援しています」と説明します。

奔走する医療従事者や外国人労働者への感謝を伝えるため窓辺で合唱するイベントも開かれました。

コロナ対策の評価は検査の実施件数に大きく左右される感染者数ではなく死者数で行うべきです。欧州では老人ホームで大量の死者が発生したり、人種や貧富の差が新型コロナウイルスによる死亡率に残酷な格差を広げたりしています。

それに比べてシンガポールが「東南アジア最悪感染国」と批判されるまでひどいはずがありません。保坂さんはこう語ります。

「日本は罰則を設けなくても外出・営業自粛の要請を守ります。シンガポールで外出規制が守られているのは罰金や強制退去の罰があるからでしょう。外出規制を破っている人を見かけたら密告するシステムもあります」

リー首相は、一足先に感染をシャットアウトしたニュージーランドから学ぶ姿勢を示しています。シンガポールが感染をいったん収束させるためには移民労働者寮でのクラスター発生を封じ込められるかどうかにかかっています。

日本のメディアもやたら外国を非難したり称賛したりするのではなく、学ぶべきところを見つけて吸収した方が得策です。

保坂美智子(ほさか・みちこ)さん

海外在住歴26年、5カ国7都市を経て、現在はシンガポール在住。米カリフォルニア大学バークレー校の統計学部を卒業後、ニューヨークのデロイト・コンサルティングに入社。アジアに拠点を移してからは、東証一部上場企業のグループ会社で業務執行取締役に就任。

シンガポールで永住権を取得してコンサルティング、携帯アプリ、飲食、ランドスケープなどの分野で起業。クライアントは母語を日本語としない政府関連も含めた地元企業が多く、地元密着型と国際ビジネスの双方に携わる。

(おわり)

在英国際ジャーナリスト

在ロンドン国際ジャーナリスト(元産経新聞ロンドン支局長)。憲法改正(元慶応大学法科大学院非常勤講師)や国際政治、安全保障、欧州経済に詳しい。産経新聞大阪社会部・神戸支局で16年間、事件記者をした後、政治部・外信部のデスクも経験。2002~03年、米コロンビア大学東アジア研究所客員研究員。著書に『EU崩壊』『見えない世界戦争「サイバー戦」最新報告』(いずれも新潮新書)。masakimu50@gmail.com

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