坂本弁護士一家殺害事件から30年 ~事実や教訓を正しく後世に伝えたい
事件は1989年、今から30年前の11月4日未明に発生した。
午前3時頃、横浜市磯子区のアパート2階に、6人の男たちが忍び込み、就寝中の坂本堤弁護士(当時33)一家に襲いかかった。
「子どもだけは……」
妻の都子さん(同29)が、長男龍彦ちゃん(同1)の命乞いをしたり、犯人の指を咬んだりして抵抗したが、抑え込まれた。3人は首を絞められたり、口を押さえられたりして窒息死した。
坂本弁護士一家のこと
ボランティア活動を通じて知り合った2人
坂本さんは、ボランティア活動などを通じて、経済的に弱い立場の人や障害者に寄り添う生き方をしたいと弁護士を志した。都子さんとも、車いすの市民集会を手伝うボランティアで知り合っている。
「幸せ探しの名人」
高校生の頃から、ボランティア・サークルのリーダー的存在だった都子さんは、多くの人から慕われていた。19歳の時には、日記にこんな詩を書いている。
〈赤い毛糸に だいだいの毛糸を 結びたい
だいだいの毛糸に レモン色の毛糸を 結びたい
レモン色の毛糸に 空色の毛糸も 結びたい
青い空と 濃い緑の森を結びたい
結びたいんだ… このまちに生きる ひとり ひとりを
結びたいんだ… 私の思いを あなたの心に〉
どんな時にも、楽しいことを見つけるのが得意だった彼女を、周囲の人は「幸せ探しの名人」と呼んだ。
2人が結婚した時、坂本さんはまだ司法試験に合格していなかった。都子さんが働いて家計を支えた。勤務先は、東京・銀座の法律事務所で、所長は宇都宮健児弁護士。当時は、消費者金融の多重債務、過酷な取りたて、高金利などが問題になっていた。豊田商事による金ペーパー商法などの消費者問題の被害も深刻だった。宇都宮弁護士は、弁護団の東京における中心的な存在。都子さんは、弁護士や被害者を支える事務局の要だった。
「心に希望、外に拡がりゆく世界を」と
坂本さんは、結婚した年の試験に合格。司法修習が始まったばかりの時、クラスの自己紹介文集に、彼は車いすに乗った友人との関わりを書いて、最後をこう結んでいる。
〈僕は思う。心に希望を、外へ拡がりゆく世界を持つ者は強いと。小さく、からを閉ざして自分を守ることしか考えられなくなった人間は弱いと。(中略)彼らは外へ出たがっている。外へ出してくれる人々の”手”を待っている。僕も外へ出ようと頑張っている。心に希望をもって、外へ拡がりゆく世界を獲得したいと思っている〉
1987年4月に晴れて弁護士となり、横浜法律事務所に就職。労働事件などに熱心に取り組んだ。誠実で、ユーモアのある彼は、すぐに多くの人の心をつかんだ。
事件が起きたのは、弁護士になって3年目。子どもがオウム真理教の信者になってしまった親たちから相談を受け、「被害者の会」を作るなどの助言をしていた。すでに様々なところで書いているが、一番最初の相談者は、私(江川)が紹介した。最初に別の弁護士にお願いしたところ、多忙とのことで、後輩の坂本弁護士に頼むように勧められた。私自身も、坂本弁護士なら、親だけでなく子どもの立場や幸せを考えてよい対応してくれると思った。坂本弁護士は、すぐに手帳を開いて、相談に応じられる日程を出してくれた。
他の事務所の弁護士2人との弁護団が結成されたが、教団との交渉やメディア対応などはもっぱら坂本さんが引き受けていたので、教団から見えていた「被害者の会」の弁護士は、彼1人だった。
断たれた1歳児の未来
龍彦ちゃんが生まれたのは、1988年8月25日。同い年には、NYヤンキースの田中将大投手やサッカー日本代表の吉田麻也選手、ラグビー日本代表キャプテンのリーチ・マイケル選手などがいる。ほかに、ピアニストの辻井伸行さん、ヴァイオリニストの五島龍さん、芸能界でも松坂桃李さんや瀬戸康史さんなど、88年生まれは様々な分野で活躍している。
わずか1年2か月余りで命を奪われさえしなければ、彼もまた、自分自身が選んだ道を歩み、生き生きと毎日を過ごしていただろう。そうした可能性や未来は、無惨にも断たれてしまった。
坂本事件の教訓
本件は、オウム真理教が、教祖麻原彰晃こと松本智津夫の指示によって、初めて教団外の人に対して危害を加えた事件だった。実行犯は村井秀夫、早川紀代秀、岡崎一明(事件当時の姓は佐伯、後に宮前)、新実智光、中川智正、そして端本悟。このうち村井は1995年4月、警察の強制捜査が行われている最中に、暴漢に刺されて死亡した。麻原を含めた残る6人は、昨年7月に死刑が執行され、事件に係わった者は、もうこの世にはいない。
初動捜査に失敗した神奈川県警
最初に坂本一家の異変に気づいたのは坂本弁護士が所属していた横浜法律事務所の同僚弁護士だった。すぐに家族が警察に届けた。この時、実行犯らが3人の遺体を3カ所に埋めて教団本部に戻ってくる以前だった。同僚弁護士らは、事件前に法律事務所を訪れてきた早川の強面が強く印象に残っており、その名前を警察に告げていた。坂本宅の実況見分を行った神奈川県警の鑑識課員は、肉眼では見えない血痕が多数あるのを検出するなど、暴力の痕跡はあった。現場にオウムのバッジも落ちていた。にもかかわらず、事件捜査の責任者である当時の神奈川県警刑事部長は、一家が自発的に失踪した可能性があるとして、非常に消極的だった。
事件の翌年、実行犯の1人岡崎が教団を離脱。この際、教団の現金や預金通帳など約3億円分を持ち逃げするが、金は取り戻されてしまった。岡崎は、龍彦ちゃんの遺体を埋めた場所の詳細な地図や周辺の写真、遺体の遺棄状況を記した図を神奈川県警や法律事務所に送り、そのことを麻原に告げて金を要求した。麻原は、その要求に応じた。神奈川県警は、岡崎が出したことは突き止めたが、岡崎は事件については否認。県警は地図で示された現場について、捜索は行ったものの、遺体を発見できなかった。
地下鉄サリン事件後に始まった警察の捜査により、1995年9月、龍彦ちゃんの遺体は、まさに岡崎が送った地図の場所から発見されている。
この事件の捜査に成功していれば…
坂本弁護士一家の事件で捜査や追及から逃げ切ったことで、麻原はより大胆になり、教団の武装化に乗り出す。彼らを肯定的に取り上げるメディアの存在も大きかった。オウムは次々に人を勧誘し、金を集め、勢いを増し、松本・地下鉄両サリン事件などを引き起こす。
もう少し初動捜査がしっかりなされていれば、せめて送られてきた地図に基づいた捜索活動を入念に行い遺体の発見に至っていれば、坂本一家の事件は早期に解決したのではないか。そうすれば、その後の事件で命を奪われる人も奪う人も出なかっただろう、と悔やまれる。
警察やメディアの関係者には、ことある毎にこの大失敗を思い起こして欲しいと思う。
麻原の指示は明確
事実を直視しない教団
両サリン事件を含め、教団による一連の凶悪事件のほとんどは、関係者の証言で教祖の指示であったことが明らかになっている。ただ、教祖の最側近だった村井の死亡により、両サリン事件に関する麻原の指示の細部は、その全てが明らかになっているわけではないのをいいことに、教団は教祖の責任を直視せず、後継団体のアレフなどは今も麻原を「尊師」として崇め、絶対的な帰依を続けている。
しかし、幼子を含む一家皆殺しという、この凄惨な事件は、実行犯らが麻原から直接の指示が出ており、その内容を裁判で証言している。麻原の裁判記録から、その証言の一部を紹介する。
麻原の妨害の中での岡崎証言
まず、1997年2月10日に行われた第25回公判での岡崎証人に対する検察側主尋問(一部『』などの記号を補い、必要に応じて〔〕内に説明を入れた。検察と証人のやりとり以外は四角で囲んだ)。
――どういうことから、〔坂本一家を〕殺害を実行することになったのですか。
「麻原の指示により実行に決まりました」
麻原「嘘をつくな」
裁判長「被告人は静かにしてなさい。発言をして、証人尋問を妨害するものではありません。発言を続けると、退廷させることになりますよ」
――その指示の内容は後で伺いますが、まずその指示があったのは、いつごろのことですか。
麻原「阿部裁判長、なぜ認否させないんですか」
裁判長「静かにしてなさい」
「平成元年11月の2日の深夜、もしくは3日の未明、午前1時か2時頃でした」
麻原「どうですか、阿部裁判長、認否させてください」
裁判長「証人尋問中ですから静かにしてなさい。その問題については、弁護人と被告人とよく打ち合わせをして、裁判所と弁護人と検察官と打ち合わせをした上決めますから、今は証人尋問を聞いてなさい。静かにしてなさい」
謀議の場所は麻原の瞑想室
――その指示を受けた場所はどこでしたか。
「静岡県富士宮市人穴の、富士山総本部道場の隣にある、サティアン4階の寝室または瞑想室です」
――誰の寝室または瞑想室ですか。
「麻原の瞑想室です」
――証人〔岡崎〕は、どういういきさつでその場にいたのですか。
「麻原から電話で呼び出され、上に上がり、寝室に入りました」
――被告人〔麻原〕からは、どう言って呼ばれたのですか
「すぐに上に上がれと言われて、サティアン1階の私の部屋から4階の麻原の瞑想室に行きました」
麻原「うそなんです。うそ。うそをついては…」
裁判長「ちょっと待ってください。被告人は、証人尋問中ですから発言しないように。発言すると退廷させることになります。弁護人はちょっと被告人に注意してやってください。
――それでは質問を続けます。あなたがその瞑想室なり寝室に行った時には、その場に誰がいましたか。
「麻原、中川、村井、早川、新実です」
(中略)
「ポアするんだ」と麻原
――被告人たちはどういう状態でその場にいたのですか。
「麻原は専用の大きな椅子に座っておりまして、それを取り囲むように、麻原の右手に中川、その隣に村井、麻原の左側に早川、その隣に新実が座っておりました」
麻原「岡崎は、しょってるんですよ、うそを。実際はそうじゃないんだよ」
裁判長「被告人は静かにしてなさい」
麻原「麻原被告は1人しかいません」
裁判長「これ以上発言すると退廷させることになりますよ」
麻原「退廷させられようとしても真実は真実です」
裁判長「弁護人、注意してやってください」
麻原「しかも、それは、そうなると、早川、新実、端本、中川の立場が悪くなります」
――よろしいですか。証人は中に入ってどうしましたか。
「中に入って、私は『今来ました』と言って座りました」
――あなたが座ったところで、誰かから話がありましたか。
「麻原から話がありました」
――被告人はなんと言ったのですか。
「坂本弁護士の件だけれども、もうティローパ大師〔早川〕と決めたんだけれども、ポアするんだよと言いました」
(江川注・「ポア」は、教団内では一般的に、魂を高いところに送るという意味で使われていたが、一部の凶悪事件の実行犯らには「殺害」の隠語でもあった。坂本事件以前に教団内の信者を殺害した時にも「ポア」が使われている)
麻原「ポアと言っていません」
裁判長「被告人は、証人尋問中に発言するものじゃありません。これ以上発言すると退廷させることになりますよ。弁護人、説得してやってください」
麻原「阿部文洋裁判長だったら認否をさせなさい、ちゃんと。正当な裁判を……」
裁判長「さっきから弁護人から注意を受けているけれども、発言をやめないんですか」
「ポア」を命じた時、指でOKマークを作ってはじく仕草
――続けます。あなたが被告人から、坂本弁護士のことだけれどもポアすることにしたんだよ、と言われたときですね、被告人は何か併せて動作をしませんでしたか。
「しました」
――どのような動作をしましたか。
「右手にOKマークのような手印、または印相をして、親指と人差し指で丸の形を作り、人差し指を手にはじくような形をして、ポアだと言っておりました」
――手のひらは上を向いていたんですか、下を向いていたんですか。
「上を向いておりました」
――証人は、被告人(麻原)のその言葉を聞いてどうしましたか。
「私は『えっ、何ですか』ともう一度聞き直そうと思いまして、立て膝のままにじり寄って聞きました」
妨害がやまず、裁判長が退廷を命じる
――それは、被告人の言った言葉の意味がよく分からなかったという意味ですか。
裁判長(被告人が立ち上がったので)「そこに静かに座ってなさい」
「言葉は聞こえましたけれども、その手印は初めて見ましたので、ポアとその手印が一緒なんだなと分からなかったので、そこで確認をしようと思いまして、近寄りまして、もう一度聞こうとしました」
麻原「阿部裁判長、なぜ出さないんですか。拉致しているんですか、阿部裁判長」
裁判長「静かにしてなさい。弁護人の説得を受けても発言を続けるようじゃ退廷させますからね」
麻原「なぜ阿部裁判長、出さないんですか。阿部裁判長、初め、認否を堂々とやれと言ったんです、私に。なぜやらせないんですか、それを
裁判長「静かにしてなさい。今はその時期じゃないからさせないんです」
麻原「阿部裁判長、出しなさいと言っているんですよ、麻原被告が」
裁判長「静かにしなさい」
麻原「じゃあ、あなたは誰ですか」
裁判長「それでは、先ほどから何度も何度も注意してもやめませんし、弁護人が説得しても発言をやめませんから退廷させます。退廷させてください」
(江川注・麻原が「させろ」と言っていた、起訴状に対する罪状認否は、裁判の冒頭手続きの中で、その機会が与えられた。麻原は、いずれの事件についても、「今、何もお話しすることはありません」として認否を行なわず、弁護人も意見を留保し、裁判は証拠調べに移った。かつての弟子の証人尋問では、麻原はたびたび不規則発言をして妨害した。なお、裁判長が被告人に対して「認否を堂々とやれ」と言った事実はない)
(被告人退廷)
麻原が説明した「ポア」の理由
――それでは尋問を続けます。先ほどあなたは、被告人が作った手印の意味が分からず聞き返したということでしたね。
「はい」(涙ぐみながら下を向く)
――大丈夫ですか。
(下を向いたまま)「……」
――聞き返したとき、誰か何か言いましたか。
「はい。麻原がもう一度、『ポアだよ、ポア』と2回繰り返して、私に言いました」
――その時の被告人の様子はどうでしたか。
「真剣でした」
(中略)
――坂本弁護士をポアする理由については、誰かから何か発言がありましたか。
「麻原からありました」
――被告人からどういう話がありましたか。
「坂本弁護士にこれ以上悪業を積ませてはいけないんで。坂本弁護士は法的手段をもって今後徹底的に〔オウムを〕たたくよ、被害者の会も大きくなる、このまま放っておいたら大変なことになる。だからポアしなければいけないんだよ。先日、青山弁護士とマイトレーヤ〔上祐史浩〕が話し合いに行ったけれども、全く話にならんかった。だから、こう決めたんだと、そのように言っておりました」
殺害方法も麻原が指示
――被告人は、そのポアについて、どういう方法をとるかということについては、何か発言はしましたか。
「しました」
――どのようなことを言いましたか。
「中川が薬を用意して、その注射を使えば○○分以内に死に至るんだよ、なあ中川、と言っておりました」
――そうすると、中川に呼びかけたんですか。
「そうです」
――中川は、それについては何か話をしましたか。
「はい」
――中川はどのようなことを言いましたか。
「はい、そうです、注射を打てば○○秒でどこそこの、臓器だと思ったんですけれども、どこかに到達し、けいれんを起こして5分以内に確実に死にますと、そのように言っておりました」
――いつどのようにして注射をするのかということについては、誰かから話は出ましたか。
「はい」
――誰から出ましたか。
「麻原から出ました」
――被告人からはどういう話が出たんですか。
「坂本弁護士は電車通勤だから、家への帰りを車に引き込んで注射を打てばいいだろうと。そしてティローパ大師とミラレパ〔新実〕は坂本弁護士の顔を見ているから、駅の方で待機していて、降りてくるのを家の近くで待機している車に無線で連絡し、帰りの途中を襲えばいいんだと。それが終わったらすぐ戻ってこいと言っておりました」
役割分担を決めたのも麻原
――あなた、村井、中川らについては、どういうことをするかという話はなかったんですか。
「ありました」
――どういうことを言っていましたか。
「アングリマーラ〔岡崎〕が運転手、マンジュシュリー〔村井〕は無線の係、中川は注射でいいだろう、とのように言っておりました」
(中略)
――端本については誰かから何か話が出たんですか。
「出ました」
――誰からどういう話が出ましたか。
「麻原から出ました」
――どういうことを言ったんですか。
「車の中に引き込む役目だが、選ぶとすれば警備班から選んだほうがいいだろう。端本が一番いいと思うがどうか。ミラレパ、おまえはどう思うか、と言っておりました」
――新実はそれに対して何か返事はしましたか。
「警備班だったら端本君がいいですね、と答えておりました」
現場の実行犯に一家殺害を命じた
当日は休日だったのに…
翌3日に実行犯らは2台の車に分乗し、変装用のスーツや手袋を買い、さらにかつらや眼鏡をつけて、夕方には坂本弁護士の自宅近くに到着した。1台の車が張り込んだが、夜が更けても坂本弁護士は帰ってこない。
この日は「文化の日」で休日。曜日や日付の感覚がないオウムの実行犯らは、それを知らずに現場にいた。坂本弁護士も仕事は休み、一家で買い物や食事をして、早い時間に自宅に帰っていたのだった。岡崎証言によれば、午後10時半過ぎ、1人でアパート2階の坂本宅の様子を見に行った。ドアポストに指を入れ、室内に灯りがついているのを確認。さらにドアのノブを回して引いてみると、ドアが開いた。
岡崎は車に戻り、村井に報告した。再び裁判記録を引用する。
早川から伝えられた麻原の指示
――あなたは、村井にはどういうことを言ったんですか。
「部屋に電気がついていて、ドアの鍵が開いている。もしかしたら、弁護士は帰っているかもしれませんよ、先生に報告してくださいと言いました」
――先生とは誰ですか。
「麻原です」
――それを聞いて、村井はどうしましたか。
「無線で早川に連絡をいたしました」
――村井は無線で早川にどういうことを言いましたか。
「私と同じようなことを伝えていたと思います」
――その無線の連絡が終わった後、どうなりましたか。
「……」
――早川は戻ってきましたか。
「戻ってきました」
(中略)
――早川は、あなたになんと言ったんですか。
「『尊師が、もし、坂本弁護士がこのまま帰らないんだったら、家にいるはずだから、家族共々やれ、まだ時間があるから、最終電車まで見張りを続けろ、との指示です』と、そのようなことを言っておりました」
――その指示の主は被告人ですか。
「尊師です」
直接聞いた早川が麻原の指示を証言
洋光台駅の前で新実と共に待機していた早川は、村井と岡崎からの無線連絡を聞いて、新実と「こういう状況であれば、尊師の指示を仰ぐしかないだろうな」と会話。早川が麻原に電話を入れた。その時の会話を、早川は1997年2月14日の第26回麻原公判で次のように証言している。
――あなたは被告人に電話でなんと言いましたか。
「まず…今、家の近くで待ってますが、まだ本人は来られませんというふうに、まず報告しました」
――それから、何か話は続いたんですか。
「それから、実はアングリマーラ大師(岡崎)が言われるんですけども、なんかその、家のキーが開いている、という話なんです、どうすればいいでしょうか、というふうに聞きました。
――それに対して、被告人は何か言いましたか。
「ほほう、じゃ中に入ればいいじゃないか」
「『ほほう、そうか』というふうな感じでおっしゃった後、『じゃ、入ればいいじゃないか』というふうに言われました」
――入ればいいじゃないかというのは、どういう意味ですか。
「自宅の中に入れば、開いているんだったら入ればいいじゃないかということだと思います」
――それを聞いたときに、あなたはどう思いましたか。
「自宅に入るとなると、本人だけじゃなくて家族を巻き込むことになると思って、『じゃ、一緒にいる人はどうなるんですか』というふうに聞きました」
――それに対して、被告人は何か答えましたか。
「『それは、しょうがないんじゃないか』と。『一緒にやるしかないだろう』というようなことを言われました」
――そのときの被告人の答え方ですが、すぐに答えたのか、あるいは少し考えてから答えたような感じだったのか、そのへんの感じはどうでしたか。
「かなり早く、迷っておられるような感じではありませんでした」
――それから話は続いたんですか。
「はい」
――どのような話が続きましたか。
「その後、『家族も同じなんだよ』というふうなことを言われたと思いますし、その後…『人数的にもそんなに多くはいないだろうし、大きな大人はそんなにいないだろうから、おまえたちの今の人数でいけるだろう』と、『いけるはずだ』というようなことは言われました」
家族も「ポア」の理屈
――家族もおんなじなんだよと言われたということですが、これはどういうことなんですか。
「要するに…悪業を積んでる者だから、ポアする必要があるということで言ってるわけですけど、家族もそういう意味でも一緒だというふうに理解しました」
(中略)
――あなたは、『〔坂本宅には〕そんなにたくさんはいないから、今の人数でも大丈夫だろう』というような被告人の言葉に対して、何か言いましたか。
「確かに、家族だけならそうかもしれないけれども、しかし、ひょっとして誰か、お父さんなりお母さんなりが泊まられてたら、そうもいかないと思って、『ひょっとしたらお父さん、お母さんなりが泊まられてたら、そうもいかないんじゃないですか』というふうに申しました」
――なぜ、そういうふうに言ったんですか。
「実際そのように、もし人数が多ければ失敗するだろうという気持ちもありましたし、そういうことを言うことによって、なんとか指示を変えてもらいたいという気持ちもありました」
――どういう指示を変えてもらいたいということですか。
「要するに、家の中に入るということを思い直してもらえばな、という気持ちは多少ありました」
――なぜ、家に入れという指示を変えてほしかったんですか。
「家族を巻き込むことが…やはり、できれば避けたいという気持ちがあったからです」
――あなたが、誰かほかの人が来てるとうまくないんではないかという意味のことを言ったことに対して、被告人は何か言いましたか。
「『それなら調べればいいじゃないか』と。『最初に見て、誰もいなければやれ』と、そういうふうに言われました」
――それから話はまだ続きましたか。
「そこまで言われたので、『分かりました』と。『しかし、まだ今の時間では、ひょっとしたら帰っておられないかもしれませんので』というふうに、私の方で申しました」
――それに対して、被告人は何か言っていましたか。
「『そうだな』と。『今でなくてもいいぞ』と。『今でない方が、むしろいいだろう』と。『遅い時間にやれ』というふうに言われました」
(中略)
――その電話での話は、それから続きましたか。
「いえ、もうそれで終わりでした」
情けない師の姿に、号泣した早川
早川がこの場面を証言する時に、麻原の発言が入っていないのは、早い段階で不規則発言が続き、裁判長が何度「静かにしなさい」と言ってもやまなかったため、退廷させられていたからだ。こらえ性のない、情けない、かつての師の姿を目の当たりにして、早川は証言台に突っ伏して号泣した。
当時の裁判は、すべての証人尋問に専門の速記官がついていたこともあり、裁判記録には証人の状況もかなり記録されている。この退廷場面は、次のように記されている。
裁判長 注意しても発言をやめないので退廷させます。退廷。
(被告人退廷)
(このとき証人は証言台に両手を置いて、その上に突っ伏して泣き出す)
裁判長 証人はね、ちょっと一呼吸おいてね。
早川 (声を出して泣き続ける)
裁判長 証人、続けられますか。
早川 (ハンカチを目頭に当てながら)はい。
裁判長 そこに水が用意してあるから、少し飲んで、落ち着くなりしたらどうですか。
検察官 少し休みますか。
早川 いいです。(水を飲む)
検察官 よろしいですか。
早川 (うなずく)
「すべて弟子のせい」という麻原
麻原は、1997年4月24日に行われた第34回公判で罪状認否を行った。坂本事件については村井、早川、岡崎の3人が「私たちがやります、やらせて下さいという話になり、〔自分は〕それを止めてたわけだな。で〔3人が〕『いや、私たちが責任を取りますから』という話でいなくなった」などと、この3者主導で行われていたと主張。5、6人で3人を殺害したので「非常に小さな罪」であるとも語った。
しかし、麻原の主張を裏付ける証拠は何もない。当初は、教祖に対する帰依心が強く、その指示について語ろうとしなかった新実も、自身の公判で坂本弁護士一家事件での麻原の指示を述べている。
調査研究の重要な資料である裁判記録の活用を
こうした裁判の記録を見れば、一連のオウム事件がどのようにして起きたのか、関係者の証言や物的証拠を確認することができる。教祖が、自分の責任を逃れるために、どういう言動をしていたのかも分かる。
オウム関連の全裁判記録は、死刑の執行を指揮した上川陽子法務大臣(当時)が、「二度とこのような事件が起きないようにするための調査研究の重要な参考資料となり得る」として、すべて保管期間満了後も「刑事参考記録」として永久保存とする指示した。
ところが、この記録をオウム事件の調査研究に役立てようにも、保管している検察庁が、なかなか閲覧に応じないのが現状だ。裁判記録は検察庁の所有物ではない。
30年と言えば、ちょうど世代が交代する歳月である。事件からこれだけの歳月が経てば、人々の記憶も薄れる。裁判での証言を子細に知っている人は少ない。そして、事件に関与した当事者はすべて死んでしまった。そんな中、一連の事件が「弟子の暴走」であるかのように言う者も出て来ている。
事件の真相や教訓が正しく後世に伝わり、このような事件が2度と起きないようにするためにも、裁判の記録を活用できるようにしていくべきだ。