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【逃げ上手の若君】足利尊氏のカリスマ性の理由。なぜ鎌倉幕府を倒し室町幕府を開けたのか?(家系図)

陽菜ひよ子歴史コラムニスト・イラストレーター

2024年7月より、アニメ『逃げ上手の若君』(原作:松井優征)がテレビ放送開始しました。原作は2021年『週刊少年ジャンプ』で連載開始した話題作です。

『逃げ上手の若君』(以下・逃げ若)とは、南北朝時代に活躍した武将・北条時行のこと。

北条時行は、鎌倉幕府執権北条家の嫡流。父の高時並びに北条一族は、足利尊氏と後醍醐天皇によって滅ぼされてしまいますが、時行は諏訪氏の庇護を得て逃げ延びます。

コミックは、作者の大ヒット作『暗殺教室』を彷彿させるシュールでポップな世界観です。当時の風習や文化を現代のゲームやカルチャーに置き換えて解説。それが絶妙にいい感じで、歴史が苦手でも入り込みやすくなっています。

前回は

・なぜ時行は『逃げ上手の若君』なのか
・2022年大河ドラマ『鎌倉殿の13人』で一躍有名になった鎌倉幕府第2代執権・北条義時(演:小栗旬)との関係

などについて解説しました。

(関連記事:北条時行はなぜ【逃げ上手の若君】なのか?【鎌倉殿の13人】北条義時との関係は?(家系図/相関図)7/30(火))

今回は、時行の最大の敵・足利尊氏について紹介します。

◆なぜ尊氏は鎌倉幕府を滅ぼし室町幕府開祖となれたのか

源頼朝が鎌倉幕府をひらいた経緯はよく知られています。源氏と平家、2強の戦いで、最終的に源氏が平家を倒したことで源氏の世となりました。これはわかりやすい。

比較すると、足利尊氏が室町幕府を開いた経緯は、ちょっとわかりにくいかもしれません。尊氏は鎌倉幕府の御家人に過ぎず、彼の背景があまり知られていないからです。

というわけで、今回は

足利尊氏がただの御家人から大きく飛躍し、なぜ鎌倉幕府を滅ぼし室町幕府を開ける存在となったのか?

その背景を掘り下げて考察します。

◆足利氏とは何者か?

◎源頼朝と足利尊氏の共通点

まず、足利氏とは何者か?

結論を最初にいうと、足利氏は「源氏」です。

しかも、鎌倉幕府開祖の源頼朝と室町幕府開祖の足利尊氏は、同じ祖先をもちます。それが、源義家(以下、八幡太郎)です。

◎頼朝も高氏も源義家の子孫

八幡太郎の子の代から、頼朝へ続く系統と尊氏に続く系統に分かれます。八幡太郎の孫である義康の代から足利氏を名乗り始めますが、本姓(正式な名前)は源氏です。

わかりやすく家系図にしてみました。

こうしてみると、頼朝と尊氏はかなり近い家系であることがわかります。

図にも記載がありますが、足利氏の正室は代々北条氏出身尊氏の正室も北条氏(赤橋流の赤橋登子)。足利氏は北条氏と姻戚関係を結ぶことで、その地位を保ってきたのです。

◆武家の棟梁と征夷大将軍

◎将軍の地位を源氏の手に取り戻した?

2022年NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』(以下『鎌倉殿』)にも描かれた通り、鎌倉幕府を開いたのは源頼朝(演:大泉洋)。しかし、彼の子孫が将軍だったのは3代将軍・源実朝(さねとも=演:柿澤勇人)まで。

そこで源氏将軍の血は途絶え、頼朝の妹の血を引く三寅(藤原頼経)を4代将軍に迎えます。6代将軍からは親王(天皇の子)を迎えるようになり、「宮将軍」と呼ばれました(上図赤丸⑥~⑨)。

宮将軍を迎えることで、幕府の権威を高める狙いがありました。

足利尊氏が鎌倉幕府を倒して室町幕府を開いたのは、将軍の地位を、宮将軍から源氏の手に取り戻した、といえるかもしれません。

◎なぜ頼朝は坂東武士を従えることができたのか?

ところで『鎌倉殿』の冒頭で、「流人」に過ぎなかった頼朝に、なぜ坂東武者たちは従ったのでしょうか?

理由は、頼朝が「源氏の棟梁(長)」だと認められたから。

のちに鎌倉殿の御家人となる坂東武士は、北条氏をはじめほとんどが平氏です。平家(実権を握る一族)ではない平氏は平家政権に不満を募らせていました。平家に対抗するために、「源氏の棟梁」である源頼朝を担ぎ上げたのです。

とはいえ、頼朝が本当に「源氏の棟梁」だったのかは疑問です。

◎頼朝は本当に源氏のトップだったのか?

頼朝は二十一流ある源氏の中で清和源氏(河内源氏)の生まれです。

そもそも源氏とは、天皇の親王が臣下に下った際に賜る名前。父帝の名前をとって清和源氏、嵯峨源氏などと呼ばれます。

参考までに、2024年大河ドラマ『光る君へ』で藤原道長(演:柄本佑)の妻・倫子(演:黒木華)の家は宇多源氏明子(演:瀧内公美)の家は醍醐源氏

平安時代末期にもっとも繁栄していたのは村上源氏です。

公家である村上源氏に比べれば、河内源氏の官位は低く、武家としての勢力は強くても「源氏の棟梁(源氏長者)」と言い切れるかどうかは疑問。

なので、ここでは頼朝は実際には「武家源氏の棟梁」と認められたと考えるべきでしょう。

◆武家の棟梁=源氏なのはなぜか?

◎スーパーヒーロー・八幡太郎とは何者?

頼朝が「武家源氏の棟梁」と認められたのは、前述の八幡太郎の血を引いているからだといわれます。

八幡太郎は前九年の役・後三年の役で大活躍したスーパーヒーロー。蝦夷征伐のための官職・鎮守府将軍をつとめ、役を平定しました。

その目覚ましい活躍は、坂東武士たちをひきつけました。そのほとんどはやはり平氏です。八幡太郎は桓武平氏の当主・平直方の娘を娶り、直方の所領である鎌倉を本拠としました。

◎邪魔者を蹴落として自分の優位を確立した頼朝

八幡太郎が盛り上げた源氏は、保元・平治の乱を経て一度は没落。しかし、八幡太郎の血を引く頼朝を中心に再び太郎ゆかりの地・鎌倉に集結し、平家を倒したのです。

頼朝は同時に、邪魔なほかの有力な武家源氏(木曽義仲や甲斐源氏など)を滅ぼしたり失脚させたりして、ライバルを排除しました。

そうして鎌倉幕府が成立したのです。

◎頼朝の策略~征夷大将軍=源氏の流れ

源頼朝は、鎌倉幕府を開くと「征夷大将軍」(蝦夷征伐の官職)を名乗り、「征夷大将軍=源氏」という流れをつくりあげます。

さらにその後、征夷大将軍は「武家の棟梁」と同義になっていきます。これで「征夷大将軍=武家の棟梁=源氏」の定義が完成したと考えられます。

その定義で行けば、頼朝と血筋の近い足利尊氏は「武家の棟梁」「征夷大将軍」いずれになる資格も十分持ち合わせていた、ということになります。

◆北条義時の不安が的中した「元弘の乱」

◎足利氏と北条氏の違い

同じ御家人でも、足利氏は将軍になれたのに、執権北条氏が将軍になれなかった理由は、血筋だと考えられます。

坂東の小豪族出身にすぎない北条氏では、武家の棟梁として認められなかったのです。政子(演:小池栄子)が頼朝の御台所(正室)だから力を持っただけ。いつほかの御家人に執権の座を奪われてもおかしくないほど、北条氏の立場は脆弱でした。

『鎌倉殿』のドラマの後半では、「闇落ち」した北条義時(演:小栗旬)が、かつての仲間を次々と粛清していきます。北条氏の立場を少しでも盤石にしようとしたのです。

義時が願った北条氏の盤石な基盤は、長くは続きませんでした。

『逃げ若』にも描かれた通り、時行の父・高時は内管領・長崎円喜に実権を握られ、傀儡となっていました。

そこへ後醍醐天皇と足利尊氏が起こした元弘の乱によって、北条氏は滅亡するのです。

北条氏の家系図もここに載せておきますね。

11代宗宣以降の執権は、内管領・長崎円喜の傀儡だったとされる
11代宗宣以降の執権は、内管領・長崎円喜の傀儡だったとされる

◎まとめ~死をも恐れぬ尊氏のカリスマ性

要点をまとめると、以下の通りです。

・足利尊氏が室町幕府を開けたのは、名門・河内源氏の嫡流だから
・源氏が武家の棟梁となったのは、源義家(八幡太郎)の英雄的な活躍があったから
・頼朝の時代に、征夷大将軍=武家の棟梁(=源氏)という構図が確立された

もちろん、尊氏が天下をとれたのは、当時の北条氏への不満や、尊氏自身のカリスマ性も大きな要因でした。彼の指導力と人望が、多くの武家たちの支持を集め、結果的に倒幕を勝利へと導いたのです。

史実の尊氏は死をも恐れず、常に笑みを浮かべていたと伝わります。まさに『逃げ若』の誰をも魅了する、カリスマ的なイメージそのものです。

(イラスト・文 / 陽菜ひよ子)

歴史コラムニスト・イラストレーター

名古屋出身・在住。博物館ポータルサイトやビジネス系メディアで歴史ライターとして執筆。歴史上の人物や事件を現代に置き換えてわかりやすく解説します。学生時代より歴史や寺社巡りが好きで、京都や鎌倉などを中心に100以上の寺社を訪問。仏像ぬり絵本『やさしい写仏ぬり絵帖』出版、埼玉県の寺院の御朱印にイラストが採用されました。新刊『ナゴヤ愛』では、ナゴヤ(=ナゴヤ圏=愛知県)を歴史・経済など多方面から分析。現在は主に新聞やテレビ系媒体で取材やコラムを担当。ひよことネコとプリンが好き。

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