ラッキーライラックを最もよく知る男が今年も朗報を届けたい相手とは……
競馬とは無縁の家庭の出身
昨年のエリザベス女王杯(G1)を勝ったラッキーライラック(栗東・松永幹夫厩舎)。彼女自身2度目のG1制覇となったが、担当する持ち乗り調教助手の丸内永舟は初めてのG1勝ちの時とは明らかな違いを感じていた。
また、丸内自身、馬の世界を辞めようかと考えた事もあったが、思い留まり、現在も続けているのには大きな理由があった。今回は彼自身の話を通し、今週末のエリザベス女王杯で連覇を狙うラッキーライラックの話を展開していこう。
愛知県名古屋市で丸内が生まれたのは1977年8月8日。現在43歳の彼は一人っ子。父・忠寛、母・恵子の下、育てられた。父は教育者。丸内と競馬との最初の接点は「テレビゲーム」だった。高校生時代、初めて乗馬をした。
「怖さは感じず、没頭するようになりました」
17歳の時には高校を中退して牧場で働き出した。
「毎日15頭前後に乗りました。初めの頃は1日に5度も6度も落馬したので、辞めようかと思いました」
しかし、すぐに家に戻れば嫌でも両親と顔を合わす事になる。そうなれば「負けたような感じになる」と思い、留まった。結果、牧場で乗り続けた後、24歳で競馬学校に合格。卒業後、栗東・山本正司厩舎でキャリアをスタートすると、2年目の2002年「他馬を蹴りに行くような勝ち気な牝馬」と巡り合った。
最初の頃はトモが甘く勝ち身に遅かったが、後に本格化すると天皇賞(秋)(G1)も優勝したヘヴンリーロマンスだった。
「その後は有馬記念も挑戦しました。ディープインパクトより後ろで競馬をする形になってしまったため勝ち負けには絡めなかったけど、良い具合で出せたのは僕自身、良い経験になりました」
07年、山本厩舎が解散すると、同じ時期に開業した松永幹夫厩舎へ異動した。ヘヴンリーロマンスの主戦騎手だった松永の下にはアウォーディーやアムールブリエなど同馬の仔が何頭も入厩。そのたび丸内が担当した。
15年に入って来たヘヴンリーロマンスの仔がラニだった。
「我の強い仔でゴネると大変」だったが、ドバイではUAEダービー(G2)を見事に優勝。その後、丸内も共に帰国する事無くアメリカへ飛んだ。勇躍ケンタッキーダービー(G1)に挑戦。ここは9着に敗れたが、そのままかの地に滞在し、プリークネスS(G1)にも出走すると5着。更にはベルモントS(G1)にも挑み、3着と健闘。アメリカ3冠レースをコンプリートしたばかりか、1戦ごとに好結果を残してみせた。
「調教中も他馬が視界に入ると走るのをやめて襲いかかろうとするような難しい面がありました。ただ、ドバイからアメリカへの遠征期間中、僕が怪我をしたら代われる人はいなかったので『やるしかない』と腹をくくって乗り続けました」
「無理です」とは言えない環境は「今思うと素晴らしい経験になった」。
ラッキーライラックとの出合い
ラニは17年秋の競馬を最後に引退したが、その少し前、同年の夏に入厩したのがラッキーライラックだった。
「初日の調教では坂路を上がって行こうとしませんでした」
当然、誘導馬はいたのだが、ついて行こうとしなかった。幸い、後ろに誰もいない時間帯だったので、本人の気持ちに任せると、しばらくしてから上って行った。
そんな態度を受け、次の日は誘導馬を横につけた。しかし、またしても同じような素振り。仕方なく3日目は前にも横にも誘導馬を配すると、ようやくスンナリと走ってくれた。
「ある意味、自分を持っている馬だと感じました」
それだけに本人の気持ちに任せたファーストコンタクトが良かったのだろう。もしあの時、叩いて無理に行かせていたら、彼女のその後の活躍はなかったかもしれない。
さて、こうしてデビューした彼女は阪神ジュベナイルF(G1)までいきなり3連勝。最優秀2歳牝馬に選出されると、翌春の始動戦でもチューリップ賞(G2)を勝利。桜花賞(G1)ではアーモンドアイを差し置いて1番人気に支持されたが、結果は2着。続くオークス(G1)も3着。後にJRA最多G1勝利記録を樹立する女王の前にいずれも打ち砕かれた。
「桜花賞は無敗での制覇が懸かっていた事もあり、調教でも守りに入って攻め切れませんでした。オークスではマイルしか使っていないという不安はあったけど、それより何より(アーモンドアイの)ルメールに上手く乗られました。ポジションを上げられなかった上に、最後の進路も取らせてもらえませんでした」
勢いの止まったラッキーライラックは、その後しばらく勝てない競馬が続いた。しかし、昨秋の府中牝馬S(G2)で3着し、復調の気配を見せると、続くエリザベス女王杯(G1)を快勝した。初G1勝ちの阪神ジュベナイルFの頃は480キロ台で走っていたが、この2つ目のG1制覇の際は518キロ。
「若い時と違い飼い葉も食べるようになり成長しているのがよく分かっていました。だから好勝負になると思いました」と丸内は言う。実際、その後に挑んだ香港ヴァーズでは再び体重を減らし、グローリーヴェイズから3馬身半離された2着に敗れてしまう。それでも当時の香港最強ステイヤーのエグザルタントやディアドラらに先着しているのだが……。
「環境が変わるとイライラする馬なので、出国検疫など、特殊な状況が続きソワソワしていました。実際、飼い食いも落ちたし、残念ながら万全とは言えませんでした」
ちなみに当時、主催者が連日、歩様検査を義務付けていたのだが、これに関しては苦笑しながら次のように説明をした。
「検疫厩舎前の地面に傾斜がついているため、脚の長いラッキーライラックの歩様がおかしく見えただけです。調教では普通に走っていたし、実際、競馬でもちゃんと走りました」
コロナ禍でも母に朗報を
帰国後、体を戻すと、520キロで出走した大阪杯(G1)を勝利。宝塚記念(G1)は「水が浮いているような馬場が苦手」(丸内)なため敗れたが、前走の札幌記念(G2)では直線、一度は抜け出す競馬で“負けて強し”の3着に健闘。それ以来となる今回はC・ルメールを新たに鞍上に迎え、エリザベス女王杯連覇に臨む。
「追い切りに乗ったルメールは『さすがトップホース。反応が早い』と言ってくれました。実際、状態は良いので期待しています」
そう語る丸内だが、01年の競馬学校時代に「中退しようか?」と思った事があった。そんな時、母の恵子に言われた。
「どうせやるならしっかりまっとうしなさい!!」
丸内が競馬学校に入る前日、恵子は体調を崩して入院していた。病床から一人息子を叱咤したわけだが、それからいくらも経たぬうち、彼女は48歳の人生に幕を下ろした。連絡を受けた丸内はすぐに帰宅し、死に目に会えなかった事を亡骸に詫びた。その後、火葬が終わると競馬学校にユーターン。以来「やめよう」と思った事はない。
墓参りも欠かさず、競馬についても報告してきたが「今年はコロナ騒動でそれもままならない」と言う。しかし、母はきっと見てくれているはずだ。たとえ墓前でなくとも、今週末、昨年同様の良い報告が出来る事を願いたい。
(文中敬称略、写真撮影=平松さとし)